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留学経験者インタビュー

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留学経験者に留学のきっかけ、その国、その学校を選んだ理由、何を得てどう活かしているかなど実体験をインタビュー。今回は、アメリカ・ハイデルベルグ大学院にて教育学を専攻(M.A)、現在は国立高等教育機関で准教授として教鞭を獲りながら、大阪大学大学院博士課程に所属する、山西敏博先生にご寄稿いただきました。

山西 敏博先生

山西 敏博先生
北海道の国立大学を卒業、カナダ・クイーンズ大学、ブリティッシュ・コロンビア大学英語教育研究機構にて英語研修を受ける。
その後、アメリカ・ハノーバー大学(インディアナ州)にて社会学、心理学を専攻。
同大学修了、帰国後、公立高校教員を経て、私立中高一貫校教員として在職の傍らアメリカ・ハイデルベルグ大学院(オハイオ州)にて教育学を専攻(M.A.)。
現在は、国立高等教育機関にて准教授として英語関連科目の教鞭を執りながら、大阪大学大学院博士課程に所属。

山西 博先生留学経験談 その1
「留学の経緯や影響を受けたことについて」

なぜ留学し、なぜその国、その大学・その学部を選びましたか

(1)留学の経緯:

①私が学部生であった1980年代は、語学留学に行く者はある程度はいても、まだ海外の大学で学問を修めに行く「留学」はさほど主流ではなく、とりわけ北海道においてはまだ一部の人しか行く事のできない特権のような位置づけでありました。しかし、海外で学問を通しての「修行」を積むことは、長い人生において大変貴重な経験で有益になるであろうと思い、札幌市内の国立大学を卒業後、道内の公立高校教員採用試験には合格はしていたのですが、その内定を辞退して、一念発起をして「留学」に臨みました。

②学生時代から「旅」が好きであったことから、大学4年(1986年)の春と夏休みをかけて「日本徒歩縦断」(北海道・稚内市―沖縄県・波照間島:3,110㎞、64日間)を決行しました。その後、旅に関する視野は海外にも及び、その1年前(1985年)に「アメリカ西海岸7日間の旅」という賞品も手に入れていたために、そこで見た「グランド・キャニオン」の雄大さに圧倒されて、「学問を修めるのも大切だが、自分自身で「留学」中にもアメリカ大陸を旅して周りたい」という意思を持ったのも、留学を決意した副次的な理由でもありました。

(2)国・大学・学部を選んだ理由:
1986年当時は北海道・函館市に「南北海道国際交流センター」という団体があり(現・(財)北海道国際交流センター)、そこで提携をしている外国大学での奨学金授与のための選考試験(1ドル=145円の時代でした)があったため、その試験に挑戦をし、合格をして、教育学や社会学に定評のある、アメリカ中西部において少数精鋭でありながら、教養的な学問をしっかりと教えてくれる、学問的レベルの高い、落ち着いて学べる環境のある私立大学を選びました。 その前に、語学力も事前に高める必要があるとも感じ、出発前にも事前にラジオの英語講座などを活用しながら研鑽を積み、「アメリカで1年間を過ごす前に、隣国のカナダでも学んで、両国の習慣の違いなども感じてみたい」と思い、カナダの名門大学の英語教育研究機構にて語学研修を受講しました。
(3)国・大学院・研究科を選んだ理由:
同じくアメリカ中西部にはなじみがあり、今度は教育学を中心としてカウンセリングにも定評があった、これもまた少数精鋭の大学院であったのと、1998年当時には日本国内(北海道札幌市)でも授業を受講することができて、スクーリング(Distant Program)の形で現地の大学に行って受講もできるという制度があった大学院であったのを活用して、オハイオ州の私立大学院を選びました(1ドル=130円前後でした)。結果として気がつくと、大学、大学院のどちらもアメリカにありながら、ドイツ系の流れを組んだ大学(ハノーバー・ハイデルベルグ)に入学することになりました。

TOEFLテストを利用した場合、何点必要で、どう勉強しましたか

学部、大学院の際、両方とも市販のテキストを購入して勉強をしました。どこの予備校にも行かずに独学にて毎日少しずつ勉強をしていました。学部の時にはTOEFL テストPBT550点が必要でしたが、大学院の時には600点を必須要件としていました。

留学したことによってどのような影響を受けましたか

(1)学部時代:
「カナダ」のしとやかさと清廉さ、控えめな美しさ。「アメリカ」の広大さと、豪快さ、傲慢さを学び、それによって「日本回帰」の影響を受けました。なんでもかんでも「我先に」ではなく、ある程度一歩下がって人を立てるといった姿勢、さらには「実るほど こうべを垂れる 稲穂かな」といった平身低頭の対人関係の方がむしろ日本社会では適応しやすくなるのだろうなといったことを、アメリカから反面教師として学びました。また、英語はもちろんですが、フランス語やスペイン語も学び、アルファベットによる語を学んだ後は、他の外国語は学びやすいものだという事も実感しました。
(2)大学院時代:
教育学において、「教師は支援者(facilitator)である」ということを学び、授業の仕方が一変しました。年度末の時期になると、学生を主役に立てて、教師としての私の方が後ろに回っての「後方支援者」として授業を作り上げていく事によって、学生の側にも「授業を成立させていく事の難しさと楽しさ」を学ばせることができるようになり、それがひいては「自立支援」の糸口にもなっていきました。そこから「協同学習(Cooperative Learning)」へと導いていく事にもつながっていきました。

山西敏博先生によるTOEFLメールマガジン102号「留学中のエピソードや帰国後について」その2 の寄稿文についてはこちら

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