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様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。

第52回 国内出版大手の小学館におけるグローバル化への対応と、英語の関わりについて その1

杉本 隆さん

杉本 隆さん
小学館に86年入社。
以来、子ども向け雑誌・書籍・デジタル関連ソフトウェアの編集・制作を担当。
現在は児童学習編集局 デジタル企画室室長。

鈴木 佑治(聞き手)

聞き手:鈴木 佑治先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授

英語との関わりについて

杉本隆さん:
現在、デジタルコンテンツを海外で制作しています。台湾小学館という海外の子会社を軸にして仕事をしています。台湾に行ってみて気づくことは、台湾の社員は日本語が話せる社員がほとんどです。なかには英語のみでコミュニケーションを取る人間もいます。そういう人たちと話をしていると、同年代の日本人の社会人と比べたら圧倒的に彼らの方がスキルが高いと感じます。どうしてこんな事態になってしまっているのかを自分なりに推測すると、一つはアジアの特質だと思います。現在はアジアのどの国も経済的に発展していく途中で、国際化しなくてはいけない状況になっています。例えば欧米企業の工場の生産ラインや営業拠点ができると、英語が必然になってくる国が非常に多いんですね。元々はアジアではシンガポール等の都市国家的なところで、英語ができる人間が多いということになったのかもしれませんが、今ではそれがアジア全域にわたっています。そのことが英語教育が盛んになっている経緯だと思います。
鈴木佑治先生:
わかりました。さまざまな業界のプロの方がどのように英語を使っているのか、また仕事でどのように英語と関っているかを多くの人が知りたがっています。小学館での英語の関わりについて聞かせてください。
杉本隆さん:
はい。元々小学館では、海外の翻訳出版以外には海外とのビジネスはほとんどありませんでした。ですから日本が誇るアニメも積極的に海外に売り込んではいませんでした。とはいっても、アニメに関してはグローバル化が進んでいるので、韓国や中国で制作するかたちが多くなってきていますが。
鈴木佑治先生:
それはいつ頃からですか。
杉本隆さん:
かなり以前になると思います。積極的にデジタル化が進んだのは1990年代ですね。あとアニメーションの制作過程でいいますと、例えば画の色づけなどは、難しい作業ではないため人件費の安い海外で行うようになりました。ですから、80年代後半くらいから、そういった作業は海外で行っていたと思います。
鈴木佑治先生:
なるほど、わかりました。さて、杉本さんご自身の経歴について教えていただけますか。
杉本隆さん:
はい。早稲田大学・政治経済学部で専攻は人権問題でした。その時、マスメディアについて非常に興味を持ちまして、大学卒業後小学館に入社しました。1986年ですからちょうど、バブルの直前くらいの時期でした。
鈴木佑治先生:
小学館をどうして選ばれたのでしょうか。
杉本隆さん:
元々テレビなどのマスメディア志望でしたが、なかなか就職先が決まらず、選択肢も残り少なくなっていました。その時、小学館の試験を受けて合格、入社しました。初めから子供の雑誌志望でしたから、当時「小学5年生」という雑誌を担当したことを皮切りに子供向け雑誌を手がけています。 ゲーム雑誌の部門にいた時期もあるのですが、ゲームですから当然デジタルの世界でした。元々英語は嫌いではなかったですし、高校時代には、ESSもやっていました。ただ、子供向け雑誌の担当となると、英語に縁のある仕事をする状況にはありませんでしたね。
鈴木佑治先生:
その時期すでに、子供向け雑誌はドラえもんを中心に世界で売れていましたよね。
杉本隆さん:
はい。版権ビジネスですから膨大な収入はありますし、その当時は、紙の本自体のマーケットが大きい時代でした。例えば単行本は今の5倍は売れていた印象です。
鈴木佑治先生:
そうでしたか。当時「小学1年生」、「小学2年生」といった雑誌なども、たくさん売れていたでしょうね。
杉本隆さん:
ええ、当時は「小学一年生」が70万部ぐらい売れていました。ところが、時代とともに子どもの趣味やメディアの多様化が進みました。最初のダメージはビデオ教材の出現、そしてテレビゲーム、コンピューター、携帯電話と、同じマーケットの中で競合はどんどん増えていきました。
鈴木佑治先生:
なるほど。子供向け雑誌からゲーム雑誌に担当が移られて、その後はいかがですか。
杉本隆さん:
ゲーム雑誌の頃、あまりに過酷で体調を崩した時期がありました。仕事が終わって帰るのが朝の7時、そんな生活を5年ほど続けていま したら、体調を崩しまして。回復後は幼児誌の担当に移りました。そこで、グラフィックの勉強をさせていただきました。それからデジタル系の企画を立ち上げる部門に異動になりました。
鈴木佑治先生:
何年頃でしょうか。
杉本隆さん:
だいたい2000年頃でしょうか。当時、社内ではデジタルに強い人間と思われるようになっていましたから、社内の格付けとしてはイノベーター的な扱いを受けるわけです。新規企画を推進することなどもそうですし、今現在の台湾の話もその一つですね。
鈴木佑治先生:
その当時の仕事の内容をもう少し具体的に教えていただけますか。
杉本隆さん:
一例としては就学前の児童が学べるような英語の絵本CD-ROMを作っていました。英語が全くわからなくても、CDを使えば遊べるといったものでした。それを一から作りまして、その時に制作を発注した会社の海外拠点がフィリピンのセブ島にありました。そこで制作の最終工程の指示も私がすることになりました。通信手段も今とは違いますから、当時はデータをハードディスクに移して発送をしていました。現在でしたら、オンライン上でできますが、当時はそういった手段がなく、郵便でのやりとりだけでした。
鈴木佑治先生:
フィリピンのセブ島に工場等があったのですか。
杉本隆さん:
セブ島には、デジタル村というか、工場誘致でデジタル関係の仕事をする会社を集めた場所がありました。今ではアジアの各地にあると思いますが。当時その1社に仕事を発注しまして、現地に行って話もしてきました。業務で英語を使うようになったのはその時からですね。
鈴木佑治先生:
現地の方とのやりとりはいかがでしたか。
杉本隆さん:
セブ島での作業はプログラム制作だったので、英語でのやりとりは現地のプログラマーの方とすることが多かったです。共通の目的をもった相手と話す時は、ある程度の英語を使って意思疎通が可能です。つまり、英語が完璧でなくても、目的がスキルを埋めてくれるわけです。
鈴木佑治先生:
また、コンピュータ用語は日本語にはカタカナ表記で導入されていますし、そんなのも困れば使い分けてかなりシェアできるわけですね。
杉本隆さん:
そうですね。もともとパソコンのソフトウェアについても、アメリカから来ているものがほとんどです。操作のボタンにしても英語ですから、さほど苦労はありません。それは今でも同じで、言語上の壁といったものはあまりないですね。
鈴木佑治先生:
私は1992年くらいから、学生をアメリカ研修に連れて行きました。必ず訪ねたのが日本のメーカーでした。そこには日本人の幹部がおりましたが、英語が話せず、日本語の分かるネイティブのリエゾン・オフィサーを雇って、現地人との意思疎通を図ろうとしていました。でも幹部、すなわち、技術者で、通訳を通して技術を伝えるのは至難の業です。それで最近では、人を介してのやりとりでは間に合わなくなってきて、幹部の人たちが一念発起し、一生懸命英語でコミュニケーションをするよう努めていると聞いております。
杉本隆さん:
フィリピンの場合は、基本的に英語圏なので文字さえ読めればどんなソフトウェアでも苦労はないんです。理系のアカデミックなものではなく、クリエイティブなものだと方向性が同じであればそんなに差異は生じないと思います。
鈴木佑治先生:
なるほど。そういったなかでも、微妙なところの理解までは難しいのではないですか。
杉本隆さん:
はい、それは未だに苦労します。例えば、台湾のイラストレーターの方に英語の単語を絵で描いてもらうのが予想外に大変でした。イラストの技量でいえば、台湾でも日本でも差はありません。でも、絵というものは、バックグラウンドがあるものですから、そこに違いが出ます。一番大変だったのは年中行事ですね。台湾と日本では全く習慣が違いますから、ヴァレンタインデーにしても、男性が女性に花を贈っている絵を描いてくるわけです。ニューイヤーズデーといった絵は、これも国によって全く習慣が違うので、印象が変わってきてしまいます。あと、意外に多いのが交通機関。駅等のイメージが台湾と日本で全く違うんです。
鈴木佑治先生:
そうですか。それぞれの文化に、その中で育まれた固有のイメージがあるというわけですね。
杉本隆さん:
はい、ですからローカライズしないといけないのですが 「切符」をどう表現するかといったときに国によってまったく違います。デジタルだろうとアナログだろうと、「切符」一つとっても、大きさや形が違うので、一つに統一することはできません。

鈴木佑治先生の感想

1970年代に、多くの日本企業が海外に進出し、海外の企業と共同で事業の展開を図るようになりました。1980年代になると現地法人を作り、本格的な海外進出が始まりました。当初、英語ができる人を現地に送りましたが、流暢な英語を話せても業界の専門的知識・経験がないために、プロジェクトが一向に進まないという事態が多々起きました。当時の企業は、英語が不得手な専門家か、英語はできるが専門知識はあまりない人かの二者択一に迫られる状況にありましたから、後者で失敗した企業は、今度は前者を送り、急場を凌いだようです。たとえば、あるカメラメーカーが、イタリアの著名ザイナーと共同でカメラをデザインすることになりました。会社は、まず、デザインより英語が堪能な人を選んでイタリアに送りましたが、知識、経験不足から仕事はストップしてしまいました。そこで、エース・デザイナーを送ったところ、つつがなく製品の完成にこぎ着けました。外国の人たちとお互いの文化を踏まえて一つ一つのことを調整しながら仕事を進める、それぞれの分野のプロをもってしかできないことであると思います。時代が変わった現在では、杉本氏のように英語を自在に操る専門家が一線で活躍しています。次号も杉本氏の話が続きます。

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