
そうか、もう四半世紀以上前になるのか。妙に暑い日だったなあ。。。メルマガ編集者から依頼を受けて、あの日のことが昨日のことように思い出された。
1970年代後半、2年間の教養課程の後、ふらふらと英文科に進学したものの、早稲田実業という系列校からの推薦入学だった私の英語力は惨憺たるもので、同級生の読書量の半分にも及ばない。そこで、手っ取り早い学習目標を探していたら、悪友にTOEFLテストを紹介された。
「英検は落ちるが、TOEFL テストは落ちるってわけじゃないぞ。」
落ちるという言葉に特に敏感な推薦生はこれに飛びついたのだが、実はこれが大変だった。
まず当時は、全ての書類を揃えて、アメリカに直接受験申し込みをしなければならない。細かいことは忘れてしまったが、確か山王ビルのフルブライト委員会(編集部注:日米教育委員会)で手に入れた申込用紙と格闘し、数少ない日程と受験会場を確定し、法外?な手数料で小為替を用意する。フォームをポストに入れた時にはどっと疲れが出て、少しは休ませて欲しいという気持になってしまった。
受験参考書も多くは「洋書」である。もともと力があって受けるわけではないから、解説を読むのも大変だった。どんな試験なのかを把握するのに、随分時間がかかった気がする。正解の確認にも一苦労だった。右の写真は、私が実際に使った参考書である。ご同輩には懐かしい、ソノシート(ぺらぺらのレコード盤)付だった。2枚のソノシートに4つの
Model Test の Listening 部分が入っている。映画や極東軍放送 FEN のニュースくらいしか聞いたことのなかった私には、とてもクリアな英語だとはわかったのだが、ちんぷんかんぷんだった。とにかく、受験当日には、準備にかけた労力でへとへとであった。そんな最初の受験で記憶していることといえば、世の中にこんな試験があったのか、という衝撃しかない。
【写真:当時使用したTOEFLテストの参考書と1979年のスコアシート送付の封筒・GREの受験票封筒】
その後、大学院進学を考えて、また何度か受験したり、日本の学校では大の苦手だった数学でしか点数のとれなかったGRE
を受ける頃になって、ようやくゆとりのようなものが生まれてきて、試験の内容も頭に残った。シロクマの肌は黒い、という知識を得たのも、確か
TOEFL テストの長文だったと思う。
そんな私が、後にTOEFL テストの Supervisor を務めるとは、それが人生の妙かも知れない。振り返れば、あのTOEFLテストが、私の英語教師としての原点といってよいだろう。
森田 彰(早稲田大学商学部教授)