TOEFL Mail Magazine Vol.39
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特別企画〜日本でのTOEFLテスト40年を振り返って〜
第4回:日本事務局設立
 
現在220カ国*1以上の国で年間約72万人*2が受けているTOEFLテスト。そのスコアは全世界の5,000以上の機関に利用されており*2、なお増えつつあります。今年の9月から(日本では2006年以降)次世代TOEFLテストが導入されるにあたり、40周年を迎えたTOEFLテストの歴史を、開発の経緯・データ・当時のエピソードなどを交えながら、シリーズで振り返ってみたいと思います。

*1
TOEFL® Test and Score Data Summary 2003-2004 Test Year Data; ETSより
*2
TOEFL® Information and Registration Bulletin 2005-2006(PBT、CBT用)より
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第3回では、日本人のTOEFLテスト受験者が増え続けていく中で、TOEFLテストの実施・運営団体である米国ETSが直接手続きを行うことが困難になり、日本での窓口を探すようになった経緯をたどりました。

そして1981年、ETSからの委託を受け、ついに当協議会がTOEFLテストの日本事務局を務めることになりました。当時はTOEFLテストの申し込みと受付からスコア発送業務を当協議会で行っていました。それにより受験生は米国に直接申し込みをする必要がなくなり、一般的な質問であれば当協議会に問い合わせできるようになりました。それから2000年にコンピュータ版TOEFLテストが導入されるまでの間、当協議会は米国ETSのRepresentativeとして日本の受験生の窓口となっていました。

日本事務局1年目である1981年7月−1982年6月の1年間の受験者数は18,626人であり*、それから毎年増え続けていきました。そうして1985年頃からの留学ブームへ入り、その勢いはさらに増していくのです。(次号に続く)

TOEFLテスト受験者数の推移
(*当協議会内部資料より)

 
■ 当時の日本

蒲田行進曲1980年にはイラン・イラク戦争が勃発し、国際情勢が緊迫しました。
一方芸術の分野では、1982年にスティーブン・スピルバーグ監督の映画「E.T.」やテッド・コッチェフ監督の
「ランボー」、国内でもつかこうへい作「蒲田行進曲」が大ヒットしました。
また同年は、現在も続いているテレビ番組「笑っていいとも!」がスタートした年でもあります。


【写真:http://www.shochiku.co.jp/video/dvd/da0149.htmlより引用】

 
 当時を振り返って

今回は、当協議会がTOEFLテストの日本事務局になった1980年代にCIEE東京事務所長を務めていた井上雍雄(いのうえ・やすお)先生に、当時の様子を伺いました。

 
 プロフィール:井上 雍雄(いのうえ・やすお)氏
井上 雍雄(いのうえ・やすお)氏
 1956
東京大学教養学部教養学科(国際関係論専攻)卒業
 1956〜1967
財団法人国際文化振興会職員
 1967〜1988
CIEE(国際教育交換協議会)東京事務所職員
(1975〜1988 東京事務所長)
 1989〜1991
桜美林大学国際学部助教授
 1991〜1999
桜美林大学国際学部教授
(異文化コミュニケーション論、国際交流論等担当)

(1989〜1991同大学国際交流センター長)
(1997〜1998同大学外国語教育センター長)
(1997〜1999同大学大学院教授・教育交流論担当)

 1999〜現在
米国カリフォルニア州在住

【主な出版物】
 1989
『話題源・英語』(全2巻)編著者(東京法令出版社)
 1990
『日本人の常識と社交性〜外国人とのコミュニケーションを良くするために』(創芸社)
 1994
『教育交流論序説』(玉川大学出版部)
 1997
『大学カリキュラムの再編成〜これからの学士教育』(共著)(玉川大学出版部)
 1998

『アメリカの学生と海外留学』(訳書)(玉川大学出版部)

 
 日本でのTOEFLテスト事始 -1-
 CIEE東京事務所が1981年にTOEFL受験手続き、試験会場の増加などをETS(Educational Testing Service)から委託を受けるようになった背景、当時の苦労、CIEEが果たした役割について思いつくままに述べたい。

 戦後のアメリカ留学ブームにともなうTOEFL受験者の急増
 1964年開催の東京オリンピック、同年の東海道新幹線の開通、日本国民の海外渡航自由化と、日本経済は回復基調にあった。戦後の米貨1ドルが360円だった固定為替相場制時代に、米国がようやくドルと金との交換停止にふみきり、変動相場制へと移行したのが1971年8月15日であった。これがドル安のはじまりである。1973年の第一次「石油危機」には300円を切り、1978年の第二次「石油危機」とつづき、私が言う第一次留学ブームが始まった。さらに1986年初頭から始まった急激な円高傾向にともない1ドルが140円前後に推移し、第二次留学ブームが到来した。授業料が比較的安いアメリカの州立大学へ留学すれば、家族から離れて東京の私立大学へ通う場合の費用とくらべても大差なくなったからである。一方、「バブル経済」のおかげで親の所得が増え子供を海外へ留学させることが比較的に簡単にできる時代となった。
 在日アメリカ領事館から私が取り寄せた資料による留学生ビザの発給件数を見てみる。1984年までは大体年間で1万人前後と推移していたのが、その後は1985年1万2千、1987年1万9千弱、1989年には3万2千弱と増加に転じている。この人たちは例外なく日本でTOEFLテストを受験して留学していることになる。

 当時のTOEFLテスト受験申し込み状況
 1981年までの日本人TOEFLテスト受験希望者はTOEFL Bulletin を日米教育委員会かETSから入手し、ETSへ直接申し込むことになっていた。当時の受験者の約3分の1は中央官庁のお役人と大企業のエリート社員ですでに留学先がほとんど決まっている人たちでTOEFLテストの成績を手に入れ、入学許可書を手に入れることが渡米するのに絶対条件であった。
 受験者が増えるにしたがい、試験会場の収容能力が不足し、希望する試験日にまでに受験票を入手し試験に臨むことができない人が続出し始めるようになってきた。ある受験者はETSまで国際電話(当時はKDDだけが国際電話取り扱いの独占であって料金がたいへん高かった)をかけて受験票をもらうよう交渉する例が多々出てきた。これにはETS側も大分困ったようである。日本での受験者の急増が、アメリカ以外の国で日本が第一番目にETSからTOEFLテスト業務委託をうけることになった大きな要因である。

 CIEE東京がETSから指名を受けた背景と業務の内容
 本稿を執筆するために当時日米教育委員会(JUSEC)の留学相談部長であったエレン・マシコさんに直接取材した。日本にETSの代理業務を務めてくれる団体としてETSはJUSECを候補にあげたが、JUSECは検討の結果断ることになり、マシコさんが CIEE を推薦したということである。そのことを知らずにETSからTOEFL部長の Russell Webster氏が数度来日し、当時 CIEE 東京事務所長をしていた私が会い、また数人の職員にも紹介した。Webster氏は当然のこととして他の団体にも足を運んだことだと思われるが、最終的にCIEEが選ばれることになった。CIEE本部がニューヨークにあって、ETSが直接 CIEE 東京事務所と連絡をとるよりも比較的便利であったことも一因かも知れない。
 当初ETSとCIEEの委託契約期間は1年で、その後は2年ごとに契約更新という条件になっていたので、最初の1年間はETSから信頼される実績づくりでかなりの神経を使った。新設のTOEFL室長には事務をきちんとこなしていた武田安正さんにお願いした。TOEFL室の仕事として(1)TOEFL Bulletinの配布と発送、(2)受験申し込み書の受領とその内容チェック、(3)受験会場の指定と受験票の発送、(4)ETSから送られてくるスコアの受験者への郵送、(5)受付締め切り日に殺到する電話での問い合わせに答えることなどがあった。彼の記憶によると、以上の単純作業ながら間違えを起こしてはならないということで、ひとつひとつの業務にかなり神経を使ったという。また、受験者の急増にともない試験会場の収容能力の慢性的な不足状態から、会場を増やしても希望した受験日に受験会場でテストが受けられない受験者が多く、彼らからのクレームに対応することも大きな仕事のひとつであった。
また、彼はETSから送られてきたオペレーション・マニュアルの難解さにも頭を悩ませた。なにしろアメリカ式マニュアルであり、業務の概要と作業手順があまりにも細かく、びっしりと書き込まれていて、読みこなすのにため息が出たということも思い出にあるという。 
TOEFL受験申し込み手続についてはこんなハプニングもあった。当時TOEFL室は赤坂見附にある山王グランドビルの2階にあり、1階には郵便局があった。受験料はドル表示であって受験者は申し込み当日のTTSレートで換算し、円で郵便局の窓口で払い、その払い込み通知書を提出することになっていた。各試験の申し込み締切日になると、TOEFL室へ直接申し込みにくる受験者が多くなり、TTSレートを確認してから、山王グランドビル1階にある郵便局へ払い込んでいた。同ビルはたしか10階建てでテナントの数も多く、TOEFLテストの申し込み締切日にはTOEFL室へ来た受験者が郵便局へ殺到したため、同ビルのテナントがたいへん迷惑を被り、CIEE会計担当職員が郵便局長さんから呼び出され、お叱りを頂戴する一幕もあった。
<続く>
 
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