TOEFL Mail Magazine Vol.55
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e-Language in Action〜次世代メディアとプロジェクト発信型英語教育〜
第14回
TOEFLメールマガジン5周年記念 ―
多文化、多言語と共生する中間言語としての英語
慶應義塾大学環境情報学部教授  兼 同大学大学院 政策・メディア研究科委員 鈴木佑治先生

鈴木 佑治
慶應義塾大学環境情報学部教授  兼 同大学大学院 政策・メディア研究科委員


 5周年記念おめでとうございます。本連載では通常の活動報告をひとまず休み、「私たちにとって英語とは何か」という根本的な問題について考えたいと思います。
 私は言語学者として英語教育に関わっております。私を含め言語学者は誰であれ現存する言語を保護しようと考えます。生物学者が種の保存を考えるのと同じことです。同時に英語教育に携わる者として効果的な英語教育を立案し実践します。しかし、効果的であればあるほど英語が世界を席巻し、多くのマイナー言語が消滅する間接的な要因となるかもしれません。真剣に言語学と英語教育に取り組めば直面するジレンマです。これは英語だけでありません。植民地時代の宗主国の言語であるフランス語やドイツ語教育に携わる言語学者も同じような悩みを持っているはずです。大航海時代の幕開けとともにヨーロッパ人による植民地が増えるにつれ、ヨーロッパの言語と引き換えに多くのマイナー言語と文化が姿を消していきました。分けても英語の覇権は強く、今や、グローバル社会のメガ言語となり、このままでは多くの言語と文化が無くなるのではないかと危惧されています。
 日本では、数年前、英語を公用語にしようという議論が巻き上がりました。他方、国際連合に対して、英語やフランス語などに加えて日本語も国連の公用語に要求しようという議論も盛り上がりました。これら2つの議論は国家や国際連合という公的組織における言語の政策についてのものです。どの言語を公用語にするかという問題は、多言語社会では政治、経済、教育などに関わる重要事項です。公用語は法律で制定されます。たとえば、ベルギーでは、法律でフラマン語とフランス語を公用語に制定しており、フラマン語モノリンガル特区、フランス語モノリンガル特区、そして首都ブリュッセルのフラマン語とフランス語のバイリンガル特区を設けています。ブリュッセルでは交通標識などはフラマン語とフランス語で記入しなければなりませんし、公務員には両言語の能力が求められています。
 国家にとっても個人にとっても母語で交渉できるかできないかは死活問題です。私たち日本人が日本語を国連の公用語にしようと考えるのは当然です。その意味で、日本語を国連の公用語にしようという議論は理解できますが、外国語である英語を日本国の公用語にしようという議論は理解できません。時を同じくして、アメリカでは、カリフォルニア州を中心に教育の場におけるバイリンガル政策を撤廃し英語モノリンガルにしようという論争が持ち上がっていました。公用語を制定するまでには色々な思惑が絡み一筋縄ではいきません。ちなみに、法律で公用語(official language)とか国語(national language)を制定している国は意外と少数なのです。アメリカでは、英語は国語ではありません、国語は無いのです。

 国語とか公用語の制定は、国連や国や地方自治体など公の場における政治、制度、政策の話です。これと民衆レベルでの言語の選択を混同すると、民主主義の根幹である「表現の自由」に抵触します。国際連合のような公の場では、国家間の政治的駆け引きにより公用語が決められます。外交が重要な位置を占めることは言うまでもありません。こうした国家レベルや国際レベルの言語選択と進行中のグローバル社会における言語選択は分けるべきです。マーシャル・マクルーハンのglobal villageという概念に基づくと、グローバリゼーションとは、国民国家を超えて、個人と個人、村と村、町と町が結びつく民衆ベースの非公式な場であるからです。そこでは誰が何語を使おうが制度によって規制することはできません。表現の自由を謳う自由主義社会では、個々人に対して「ある言語を使え、使うな」という規制は出来ません。英語はそうしたグローバル社会を構成する民衆に共通語として選択されたと考えるべきでしょう。好きで英語を選んでいるのではなさそうです。最近、東南アジア、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン、アラブ諸国を10ヶ月間旅した人に聞くと、どこに行っても現地人や各国からきた旅行者同士の会話は英語であったと聞きました。生活の為の「必要悪」として使うという方が的確です。民衆のしたたかさと言うべきでしょう。

 グローバル英語はオーセンティックな英語と質的に違います。国や国際機関の公用語としての英語は、フォーマルな場に相応しいフォーマル・スタイルの標準語ですが、グローバル社会のコミュニケーションの共通語として使われている英語は基本的にはインフォーマルです。いかなる言語も方言があり、それぞれの方言にはスタイルがあります。標準語にはコチコチのフォーマルなスタイルから、やや崩れたインフォーマルなスタイル、そして友達や家族などと交わすとてもカジュアルで親密なスタイルがあります。公の場ではフォーマルなスタイルを、日常生活の場ではインフォーマル以下のスタイルで話します。しかし、地方の方言にはインフォーマルとカジュアルで親密なスタイルしか残っていませんから、日常生活では方言を話し、公の場ではフォーマルな標準語にシフトします。グローバル社会はインフォーマルでカジュアルな市場です。そこで話される英語はピジン、クレオールに近いものと考えてよいでしょう。ハワイ、カリブ海の国々、アフリカの国々では、ピジン英語またはクレオール英語が日常言語として話されています。構造的には英語ですが、現地語の表現が入り混じり、文法、意味、発音も標準語とは著しく異なります。ナイジェリアなど200もの言語が共存する多言語社会では、日常生活のリンガ・フランカとして定着しています。植民地時代の匂いがするので好んで使用しているわけではありません。長く反目しあう部族間では差しさわりの無いリンガ・フランカとして機能しているのです。しかし、それぞれの部族語の語彙を取り入れて文化的遺産も残しているので、それぞれの部族のアイデンティティとしても存在することも確かです。

 アフリカ系アメリカ人は奴隷時代に、暴動を恐れた政府により同言語の話者同士にならないように異言語話者の集団を作らされました。よって母語を失い、いわゆるアフリカ系アメリカン英語が生まれました。アフリカではそれぞれの部族語は残りましたから、その部族語のほかにリンガ・フランカとしての英語が生まれました。ピジンやクレオールが生まれた背景は不幸なものでしたが、しかし、そこには圧制を生き残った民衆のバイタリティーを感じます。国際化時代には、それぞれの国家を代表するエリートが中心でした。その英語は、"My Fair Lady"で描かれている英国のReceived Pronunciationに代表される上流社会の英語でした。しかし、グローバル社会は種々雑多な民衆の集合体であり、様々な英語でコミュニケーションが展開されます。それは街頭や市場で物を売ったり買ったりする商取引の場の延長です。かつては身体的に歩ける範囲が私達の市場でしたが、インターネットなどの先端テクノロジーで情報を集め売り買いする今、かつての街頭や市場は全世界に広がりました。マクルーハンは1960年代に、エレクトロニクス・テクノロジーがヒトの中枢神経をグローバル規模で広げると予言していました。1980年に亡くなりましたので、デジタル・テクノロジーの出現が彼の予言を実現するのを見ることはできませんでした。
 私は、映画「Always−3丁目の夕日」で描かれているような世界に生まれましたので、インターネットで外国から商品を買うなどという変化には未だに付いていけません。デジタル・テクノロジーで繋がったグローバル社会は、世界に現存する何千という言語の中から英語をリンガ・フランカとして選んだようです。そこには様々な英語が飛び交っていますが、観察すると、非英語圏の人々の英語も英語圏の人々の英語もとてもインフォーマルな英語であることが分かります。非英語圏の情報を見ると、中国人は中国人的な、アラブ人はアラブ人的な英語が飛び交っています。前置詞、冠詞、三単現、複数形、単数形などの文法性(grammaticality)をあまりに気にせず、相互理解(mutual intelligibility)を重視して通ずればOKという英語の世界です。それぞれがそれぞれの言語的、文化的な背景を礎に好きなように発信しています。それぞれにとってそれぞれの母語が重要であり、それを失ってまでいわゆる「正しい」英語を学ぼうなどとは思っていないようです。英語は介在する多くの言語の中間語として存在するのみですから、重要な概念をあえて英訳せずそのまま原語を投入しています。ピジン言語を使う話者達のバイタリティーに似ています。初めは訳がわからなくてもそのうちにお互いのナマリに慣れて行きます。

 今の若者が何十年後かに生きる世界はまさにこのような世界です。私たちが、本連載で紹介している幼児から社会人に至るまでのプロジェクト発信型の英語プログラムを作り、外国の人たちと言語と文化を交換する共同プロジェクトをする場作りをしているのはこの為です。すでに過去13回の報告でもお分かりの通り、英語を中間言語にして、例えば、韓国の中学生と日本の中学生が様々なプロジェクトを組み、お互いに韓国語と日本語を教えながら、プロジェクトを行ってきました。マクルーハンは新しいテクノロジーはnew media環境を提供していると述べましたが、言語を使って書いたり読んだり話したり聞いたりするだけではなく、視覚や聴覚を使ってメッセージを発信したり受信したりすることができるようになりました。今、私たちが考えているプロジェクトは、文字をもたない言語を話す人たちと交流し、映像と音でその言語と文化を保存し学ぶことです。もちろん日本語と日本文化も発信し学んでもらいます。そこでは英語は単なる中間言語です。

 最後に、英語がグローバル言語になった理由を推察してみます。英語の歴史は変化の歴史です。古代中世英語で既にラテン語が流入し、その量は中世から近世にかけ更に増えました。特に中世英語以降、英国の宮廷ではフランス語を使用したため、現在の日本語にカタカナ英語が増えているように、沢山のフランス語の語彙が流入しました。ラテン語もフランス語経由と考えたほうがよいかもしれません。その影響は語彙にとどまらず文法構造にも影響を及ぼしました。近世の英語は動詞や名詞や形容詞の活用を失い現在の英語につながっています。また、英語圏の政治、経済の中心が米国に移ることにより英語は他の外国語からの借用について更に寛容になったと考えられます。移民国家米国では食べ物や慣習を表す語彙がどんどん流入しました。ピザなど全ての食べ物の語彙を英訳していたら大変ですし不可能です。現在の英語は格式が高い語彙はフランス語経由でラテン語やギリシャ語から来た語彙で、スラングを初め俗語はもともとの英語です。すなわち、英語はあらゆる言語から語彙表現を受け入れ、その純粋性を失うことによってなんでも表現できるバイタリティーを得た言語なのです。グローバル・メガ言語としての英語はグローバル社会のありとあらゆる表現を吸収し更に膨れ上がるでしょう。これはフランス語とはまったく違った道を選んだ言語といえるでしょう。グローバル社会の個人は、それぞれが属する国を象徴する公用語としての言語とグローバル言語が必要になります。前者は国家の政策で後者はグローバル社会の表現の自由の延長で選択されるでしょう。
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