TOEFL Mail Magazine Vol.53
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第17回
交流しなければ英語は身に付かない―筆者の体験談より
鈴木佑治先生

鈴木 佑治
慶應義塾大学環境情報学部教授  兼 同大学大学院 政策・メディア研究科委員



 年末、新年の合併号ということで、「交流しなければ英語は身に付かない」ことを私の経験を通してお話したいと思います。私が英語を習い始めたのは中学校の1年生でした。1956年です。静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に生まれ育ち、ごく普通の公立の中学校に行きました。日本は貧しくやっと食べ物が行き届きはじめた頃で、対照的にアメリカとイギリスは豊かで光り輝いていた時代です。その数年前には、女優の田中絹代さんが新婚旅行でハワイに行って来ただけで銀座でパレードをしたなどという出来事が話題になったはずです。一般庶民が渡航するなど夢のまた夢でした。当時私は、清水港に行って外国船を見るのが楽しみでした。港の周辺は外国人の船員で溢れ生の英語を聞くことができたからです。ある日私達の中学校に外国人がやってきました。全校生徒が並んで迎えていると校長先生が英語の先生を連れてやってきました。ところが外国人が英語で話しかけると英語の先生たちは逃げるように退散しました。「先生たち英語話せねーようだ。」と上級生の1人がポツリと言いました。
  地方都市で生の英語に接する機会は皆無でしたから先生とは言え話せなかったのでしょう。清水は港があり外国船の乗組員と接する機会はありましたが、港周辺の一部に限られていました。敗戦国の日本人が戦勝国の英米人に近づいて話すことなどとても怖くて出来ません。マッカーシーの言論統制が厳しく英語でアメリカ人と正々堂々と交流する人などいなかったのでしょう。外国人に会うと何を言っていいか分からず、Jack & Bettyの教科書で習った”I am a boy.”と言ったものですが、今から思うと彼らの耳には「私は少年です。」ではなく、「私はあなた方の給仕係のボーイです。」と響いたのかもしれません。そんな中学2年生の暮れのことでした。近所のプロテスタントの教会で、宣教師が無料で英語を教えてくれていることを聞きつけ行ってみることにしました。毎土曜日1回だけの集会で、イーグルご夫妻が英語を教えたり聖書の話をしていました。英語の勉強はそっちのけで、そこで出会った友達と遊ぶのが楽しくて高校に進学してからも通い続けました。早口英語でまったくちんぷんかんぷんでしたが、それでも挨拶程度は出来るようになり外国人に対して違和感がなくなりました。友達の中にはベラベラと話せるようになった人が居ましたが、その人は宣教師の家にまで出入りした人で、私は距離をおいていましたので英語の音には慣れただけでした。
  結局渡米する前の私が英語のネイティブ・スピーカーと直に接したのはこの時期だけでした。1962年に大学に入り英米文学を専攻し1966年に卒業し、大学院の修士課程に進み1968年に修了しました。中学校から数えて12年間も英語を勉強したことになります。大学では生の英語に接することなく英米文学の原書を訳読して読みました。古代中世英語のべオルフ、アーサー王物語、チョーサーから、近世英語のシェイクスピア、ミルトン、ダンなどの詩人、フィールディング、オースティン、ロマン派詩人、エリオット、メルビル、ホーソンからフォークナーやヘミングウエイなどの米文学を辞書を片手にコツコツと読み、その数は200冊に及びました。

  留学を考えはじめたのは1967年のことでした。フルブライト・スカラーシップに応募し、はじめてTOEFLを受けました。外貨規制が厳しくTOEFLの検定料をドルで払うのも簡単ではなく、申請書類を何枚も書かされたものです。1次が合格し2次の面接に進みましたが、外国人の面接官が何を言っているか分からず大恥をかきました。日本人の面接官に「何故留学したいのかと聞いているんだよ!」と大声で怒鳴られる始末です。もちろん不合格でした。年が明けて1968年の2月に、通りかかったアメリカ文化センターに立ち寄り英文のパンフレット一ニューオリンズにて(ミシシッピー河を下る外輪船部を手にしました。読んでみると、南部の某州立大学English Orientation Programと書いてあり、比較的簡単に渡米できそうです。行って分かったことですが、大学の校舎を借りていた大学とは無関係の英語インテンシブ・コースでした。応募するとすぐ許可書が送られてきました。親から資金を借りてビザを取り4月に渡米しました。本当はニューオリンズでジャズを聞きたかったこともあり、あまり深くは考えていませんでした。

【写真】:ニューオリンズにて(ミシシッピー河を下る外輪船)

  当時は日本からの飛行便はJALのみで、それもサンフランシスコ便しかありませんでした。そこからはアメリカの国内線でグルグル回り、テネシー州メンフィスからはグレイハウンド・バスでニューオリンズに向かいました。英語しか通用せず何を言われているのかさっぱり分かりませんでした。グレイハウンドのバスの停留所のキャフェテリアに入り何をオーダーしてよいか立ち往生です。カウンターの向こうからアフリカ系アメリカ人のウエイトレスが大声で注文を聞いてきます。私は呆然と彼女の顔を見つめるのみでした。日本で12年間学んだ英語はなんであったのか? 私はこの時点でTOEFL500点以上のスコアを上げていました。現在行われているTOEICに換算すると600点以上です。当時のTOEFLはかなり難易度が高かったのでそれ以上かもしれません。それなのに食べ物のオーダーさえ出来ませんでした。今多くの会社でTOEIC600点を取ることを奨励していますが、TOEIC600点をとっても主に読み聞きの受信の能力であって話し書きの発信能力ではありません。実際の運用場面では何を言ってよいか分からず私のように立ち往生する可能性が大でしょう。
  このキャフェテリアでの出来事は私の人生を変えました。1年位滞在して帰国するつもりでいましたが、本場の英語をマスターするには1、2年では無理だと実感し方針を変えました。(日本の野球選手が本場のメジャーリーグに行きたがる気持ちはよく分かります。)ショックはそれだけではありませんでした。日本を発つ前に留学先となるその南部の州立大学の英文科にも願書を出しておいたのですが、英語のインテンシブ・コースを始めて1ヵ月後、英文学科長に呼び出され直接結果を聞く羽目になりました。彼の机の上には私の書いた志願書と、日本の大学と大学院時代の先生方(故人)の書かれた推薦状が一字一句真っ赤に修正を加えられたまま置いてありました。「君の英文もひどいが、それ以上に、こんな推薦状しか書けない人たちが教えている英文学科の学士号も修士号も信用できない。」と言われてしまいました。本当にショックでした。当時は日本人への偏見が残っており私もタクシーの乗車拒否をされた経験がありますが、それを差っぴいても先生方の推薦状の英文は英文ではありませんでした。当時の私でさえ納得できるほどでした。それらの先生方はオックスフォード大学での留学体験談を話していましたが、目の前の英文の推薦状を見ながら複雑な感情がよぎりました。
  ですから1ヵ月後にカリフォルニア大学サンタバーバラ校の英文学科から合格通知を貰った時の感動は今でも忘れられません。それもインテンシブ・コースでTOEFL600点(TOIEC900点相当)を上げたからですが、いざはじめてみると、それだけでは英文学科のリサーチやリーディングやライティングなどの授業についていくのが精一杯でした。アメリカの大学や大学院では、TOEFL600点を取ったからといっても何も保障してくれません。その後カリフォルニア大学では授業料が払えず1968年9月から1969年3月まで在籍しただけで、サンフランシスコ近郊の州立大学で日本語教員の職を得て移りました。そこで教えながら英文学の授業を取りリサーチ、ディスカッション、ディベートそしてペーパーを書き、1972年にやっとネイティブと対等に討論しペーパーがかけるようになりました。1972年に専攻を言語学に変えてハワイ大学で修士号を、それから1973年にはワシントンD.C.のジョージタウン大学に移り、1978年に言語学(英語学)博士号を修得して日本に帰ってまいりました。

筆者と慶應大学SFCの学生諸君 ホワイトハウスの庭で
【写真】:筆者と慶應大学SFCの学生諸君 ホワイトハウスの庭で

  この間の留学生活では、勉強だけではなく多くのアメリカ人の友人ができ、地域コミュニティーの一員としての生活も体験しました。日本語を教えることで多くの学生と接し今でもその交流は続いています。アメリカの大学院の生活はとてもきつかったのですが授業は楽しく、また、友人との様々な交流は一つ一つが思い出となっており、私の親友はその時の友人です。TOEFLやTOEICはとても優れたテストですから、そのために勉強することも大切です。しかし点を上げることだけを目標にするのは誤りで、これらのテストの趣旨から外れます。TOEFLはあくまでも英語力の診断や到達度を測るものであり、普段から色々なものについて関心を持ち、聞き、話し、読み、書きしながら英語で交流することによってその結果できるようになります。私も毎日の生活の中で英語を使っているうちに、気が付くとTOEFLのスコアが伸びていました。今回は私のほろ苦くも懐かしい若かりし日の体験談を通して、現在の若人に楽しく交流しながら英語を学ぶことを勧めたいと思いました。現在の日本では、現地に行かなくとも周りの環境を利用していくらでも英語で交流する機会があります。その中で、バランスよく機能的な英語運用能力を付けることをお勧めします。この連載で紹介している英語e-Learningの活動の目的は、そうした環境作りであると言ってよいでしょう。


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