年末、新年の合併号ということで、「交流しなければ英語は身に付かない」ことを私の経験を通してお話したいと思います。私が英語を習い始めたのは中学校の1年生でした。1956年です。静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に生まれ育ち、ごく普通の公立の中学校に行きました。日本は貧しくやっと食べ物が行き届きはじめた頃で、対照的にアメリカとイギリスは豊かで光り輝いていた時代です。その数年前には、女優の田中絹代さんが新婚旅行でハワイに行って来ただけで銀座でパレードをしたなどという出来事が話題になったはずです。一般庶民が渡航するなど夢のまた夢でした。当時私は、清水港に行って外国船を見るのが楽しみでした。港の周辺は外国人の船員で溢れ生の英語を聞くことができたからです。ある日私達の中学校に外国人がやってきました。全校生徒が並んで迎えていると校長先生が英語の先生を連れてやってきました。ところが外国人が英語で話しかけると英語の先生たちは逃げるように退散しました。「先生たち英語話せねーようだ。」と上級生の1人がポツリと言いました。
地方都市で生の英語に接する機会は皆無でしたから先生とは言え話せなかったのでしょう。清水は港があり外国船の乗組員と接する機会はありましたが、港周辺の一部に限られていました。敗戦国の日本人が戦勝国の英米人に近づいて話すことなどとても怖くて出来ません。マッカーシーの言論統制が厳しく英語でアメリカ人と正々堂々と交流する人などいなかったのでしょう。外国人に会うと何を言っていいか分からず、Jack & Bettyの教科書で習った”I am a boy.”と言ったものですが、今から思うと彼らの耳には「私は少年です。」ではなく、「私はあなた方の給仕係のボーイです。」と響いたのかもしれません。そんな中学2年生の暮れのことでした。近所のプロテスタントの教会で、宣教師が無料で英語を教えてくれていることを聞きつけ行ってみることにしました。毎土曜日1回だけの集会で、イーグルご夫妻が英語を教えたり聖書の話をしていました。英語の勉強はそっちのけで、そこで出会った友達と遊ぶのが楽しくて高校に進学してからも通い続けました。早口英語でまったくちんぷんかんぷんでしたが、それでも挨拶程度は出来るようになり外国人に対して違和感がなくなりました。友達の中にはベラベラと話せるようになった人が居ましたが、その人は宣教師の家にまで出入りした人で、私は距離をおいていましたので英語の音には慣れただけでした。
結局渡米する前の私が英語のネイティブ・スピーカーと直に接したのはこの時期だけでした。1962年に大学に入り英米文学を専攻し1966年に卒業し、大学院の修士課程に進み1968年に修了しました。中学校から数えて12年間も英語を勉強したことになります。大学では生の英語に接することなく英米文学の原書を訳読して読みました。古代中世英語のべオルフ、アーサー王物語、チョーサーから、近世英語のシェイクスピア、ミルトン、ダンなどの詩人、フィールディング、オースティン、ロマン派詩人、エリオット、メルビル、ホーソンからフォークナーやヘミングウエイなどの米文学を辞書を片手にコツコツと読み、その数は200冊に及びました。