TOEFL Mail Magazine Vol.68 June 2008
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生涯英語のすすめ For Lifelong English

様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。
英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる英語の楽しさをお伝えしていきます。
英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。
[For Lifelong English|生涯学習としての英語]バックナンバーはこちら>>

第13回
世界が舞台 そして今日本文化を世界に発信する その1

鈴木 佑治 立命館大学生命科学部生命情報学科教授・慶応義塾大学名誉教授

鈴木 佑治
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶応義塾大学名誉教授


今月のインタビュー

中村 忠男(なかむら ただお)氏

中村 忠男さん財団法人日航財団 常務理事
1950年生。東京大学法学部卒。
1972年日本航空入社。
2007年より現職。
ジョージタウン大学大学院国際関係修士(1978年)。
俳誌「春月」同人。




中村さん(左)と鈴木教授
中村さん(左)と鈴木教授

読者の中には大好きな英語をどのように活かしていこうか考えている方々も多いと思います。今回は、世界を舞台に英語で活躍するトップ・ビジネスマンのお一人の財団法人日航財団の常務理事 中村忠男氏にインタビューしてみました。中村氏は、東京大学法学部を卒業後日本航空に入社し、その後会社から派遣されて米国ジョージタウン大学大学院修士課程で国際関係論を学びました。修士課程を修了して会社に戻るや、中村氏は英語力、国際関係論の知識、体験を活かして世界中を飛び回り航空路線の開拓など様々な功績を残しました。現在は日航財団にて国際文化交流事業を管轄されており、その一環として俳句による文化活動を進めています。今年6月には日本の子供たちが作った俳句を英訳して出版し大変な反響を呼んでいます。中村氏がどのように英語能力を身につけ、国際交渉や文化活動に活かしてきたか、お話を伺いました。


英語好きから日本航空に
鈴木

本日は日航財団の常務理事、中村忠男さんにお話をお聞きしたいと思います。まずは、東京大学を出て、なぜ日本航空の仕事に就こうと思われたのですか。

中村: 受験勉強をしているときに英語が一番面白かったんです。それで、大学の寮にESSサークルがありましたので、そこに入りました。2年ぐらい住んでいましたが、英語が好きな学生が回りにたくさんいて、自然と英語に親近感をもつようになりました。
鈴木 東大の寮にESSのサークルがあったのですか。
中村:

はい、そうです。10人くらいで今でもよく集まります。私のように企業に就職した人の他に、外交官、大学の教授、医者になった人など、さまざまです。たまたまなのでしょうが、文系より理系の人が多いんですよ。理系の教授になった人は、語学好きを活かして日本人の英語論文の書き方セミナーを、学会誌に連載したりしています。

鈴木 理系だと論文を発表する機会など多いですからね。それで中村さんが日本航空を選ばれたのはどうしてですか。
中村: 漠然としてますが、国際的な仕事をしたいと思っていました。学生のときに明石康(のちの国連事務次長)さんが紹介されていた新聞記事を見て、とても魅力を感じました。ただ、外国語の能力にそこまで自信がなかったし、お役所はちょっと堅苦しそうだし、性格に合うかなとも思いました。そこで当時人気のあった日本航空に興味がわきました。
鈴木 当時の航空会社は、国際線があるのは日本航空だけでしたね。日の丸を背負ったフラッグキャリアだった。
中村: そうですね。海外との結びつきという意味では、日本航空は非常に強かったです。当時は自動車産業などが海外に出て、商社の海外での活動も盛んになってきた頃でした。日本航空も国際的な企業ということで、社会の注目を集めることが多くて、企業イメージもとてもよかったですね。
鈴木

今もそうですけれども、昔は日本航空に勤めるなんて大変なことでしたね。文系では男も女も、当時職業別人気No.1企業でした。それはやっぱりESSでやっていたことの影響が大きかったのでしょうか。

中村: 筆記試験、面接試験とありましたが、英語の試験は結構できたと思います。入社が決まってこれで、大きな組織で世界をまたにかけた仕事ができるぞ、というような自分なりの夢を考えました。でも一方、本当にこれでいいのかな、などと思ったりもしました。法学部の学生でしたので、法律家の道にも未練がありました。私の学年はちょうど大学紛争があって。
鈴木 あ、そうですね。東大紛争の真っただ中だ。
中村: 授業が1年くらいまったくなくて、直接間接にいろんな影響を受けました。1年ほどたって正常に戻ったのですが、ブランクがあったからとて、卒業を1年延ばせるわけではなく、残りの期間で全部の講義を受けたのです。そうすると、例えば司法試験を受けると言っても間に合わなかったです。
鈴木 うーん、なるほど。
中村: 最初から学生紛争は関係ないと思って、勉強した人もいたようですが。そんな折、親が病気になり、いつまでも頼っていられないと思って、日本航空で働こうと決めたのです。英語が好きだということと、国際的な所で仕事をしたいという希望には叶っていました。

入社してからの英語との関わり そして留学へ
鈴木 それから、僕と米国のジョージタウン大学で出会う1976年までの4年間は、日本航空でどういう仕事をしたのですか。

中村:

最初は営業支店で、航空券の販売事務の仕事に配属されました。その後、国際旅客部という本社の営業企画的な部署に異動し国際線の企画をしました。例えばスリランカに150人乗りぐらいの飛行機を年間20便とか30便とか、チャーター便で飛ばしていたんです。スリランカは今は民族間の対立で武力紛争が起こって大変ですけれども、当時は、ずっとのんびりしていましたね。そこに予め計画された便を、企業や団体がチャーターして自分のグループを連れて行く、ということを「スケジュールド・チャーター」と言ったんですが、その年間スケジュールを企画して、スリランカに何回も行き、向こうの担当者と色んな話をしました。
鈴木 なるほど。そういう交渉をしていたのですね。当時はEメールはないし、電話や、手紙を書いたりして、交渉したということですね。
鈴木教授
 鈴木教授
中村: 向こうの航空局に、今年はこういう計画でこういうスケジュールド・チャーターをやりたい、と手紙を書いたりしていました。今はそういう業務はオンラインで簡単ですが、昔は大変でしたよ、本当に。ですから、実際スリランカに何回も行きました。航空局や観光局の方々と交渉したり、日本人が来たらこういう所にお連れするといいですよ、というような打ち合わせをしたり。
鈴木 それは全部英語でしょう?また、スリランカも独特のアクセントの英語でしたでしょう?
中村:

そうです。最初は結構びっくりしましたね。

鈴木

そうでしょう。だって、東大の英語の授業で、そんな英語を教えてくれるわけではないですものね。中村さんは当時、素晴らしい英語を話していたのでしょうね。

中村: いやいや。英語がある程度自分で自信持ってしゃべれるようになったのは、ジョージタウンから帰って来てからの話です。それ以前は、本当に受験生の英語に毛が生えた程度のレベルでした。留学する前にTOEFLテストを受けましたけれど、確か570か580か、そんな数字でした。
鈴木 いや、それはすごいですよ!ペーパー版で、海外に行ったことがなくて、それで580っていうのは相当な力ですよ。
中村: そうですか?確か600いってなくて、ジョージタウン大学にスコアを見せると、ちょっとこれでは英語力が足りないから、夏休み前に来てサマースクールに入ってください、と言われたんです。
鈴木 基礎的な英語力があった上にビジネスの実践の場で鍛えられていても、ジョージタウンでは英語力が不足していると…。ところで日本航空でそういう仕事をしながら、どうして留学することになったのですか?会社の方針でしょうか。
中村:

国際的な人材を育てようということだったと思います。私の前にも何代かいたのですが特に国際航空法に関する法律的な知識を持つ人材を育てようということでした。

鈴木

ここで寮のESSでの英語知識と、法学部の法律知識と、そして会社に入ってからの交渉力が、生きてきたわけですね。


ジョージタウンでの留学生活
鈴木

ジョージタウンでは何を専攻したのですか。

中村: Master of Science in Foreign Serviceという大学院のコースです。日本語の訳が難しいのですが外交学部、とか国際関係学部とでもいいましょうか。そこで国際経済、国際ビジネス、国際政治について理論と実践を学びました。
鈴木 ジョージタウンでは看板学部ですよね。そこでついていくには相当の英語力が必要ですね。そこでどういう勉強をしたんですか?TOEFLテストが600点には足りないから英語のクラスを取れと言われて。
中村:

夏休みの間に英語のクラスに2週間くらい行ったのですが、それはそんなに難しくないんですよ。言葉がスムーズに出るようになりましたね。ただ、TOEFL 580点の人が英語の補習をちょっと取ったからって、それだけでは大学院の授業に最初からついていけないです。そんなに甘くはありませんね。

鈴木 ジョージタウンって言うのは知る人ぞ知るものすごく厳しい学校で、すごい勉強させられる。Foreign Serviceっていったら看板学部だから特に授業についていくのは大変ですね。
中村:
中村さん
 中村さん

外国人は私を含めて3人だけ。あとは50数人全部がアメリカ人。だから最初はとてもしんどかったですね。特に政治学関連の授業がしんどかった。政治理論は英語でやるのは難しいですね。我々は会社員なので、経済学とかビジネスの授業は英語でもいいんです。授業で先生の言っている英語が全部わからなくても、資料やテキストを読めばわかるし、読んでわかればその後先生の言ってることもわかるようになってくる。でもオーソドックスな政治学の授業はとても苦労しましたね。アメリカ人のクラスメートに教えてもらっても、やはりよくわからないことが多かったです。具体的な政治事象は時間をかければ理解できるのですが。

鈴木 マキャベリとかそういう?
中村:

そうですね、政治哲学や政治理論、英語でやるのは非常に難しかったです。苦労しました。

鈴木 どのくらい読まされました?
中村: 1週間に4科目とって、各科目毎週2冊くらい読めと言われていました。1冊200ページとか400ページとかの本を。そんな、無理でしょう?日本語で読むのだって大変なのにどうするんだろうと思いましたよ。最初のセメスターは4科目とらなくちゃいけないのに2科目しか終わらなかった。だから夏休みを返上して残りの2科目をとりました。でもそのうちだんだんコツがわかってきました。アメリカ人だって全部読んでるわけではないんですね。まじめに精読して全部読もうとしたってとっても読めない。
鈴木

ネイティブでさえもついていけないくらいの量が出るし、内容は難しいし。

中村: 1年経ってだんだんコツがつかめてきて、あの先生の話のポイントはこういうところで、レポートを書けといわれれば、テーマや焦点はここだ、ということがだいたいわかってきました。そのポイントを読むわけです。本はそういう風に読まないと頭に入ってこない。1冊の本を最初から最後まで読んでもなかなか頭に入らない。非能率ですよね。自分で問題意識を持って、それについてその本から解答を得ようとして読まないと頭に入ってこない。
鈴木 たしかに。それでどんな授業をとったのですか?
中村: 政治と経済とビジネス、この3つのテーマについて様々な授業をとりました。たとえば経済学だったら、国際貿易の法的な枠組みとか、多国籍企業の問題など。それぞれ1セメスター4科目掛ける2年間4セメスターで全部で16科目とりました。その中で政治学だけ2つCをもらいましたよ。
鈴木 そのくらい難しかったんですね。日本もアメリカも大学院ではだいたいAやBをくれるんですよね。だけどジョージタウンでは大学院生にCやDを平気でつける。ごまかしができない大学院ですね。言語学でも何人も落とされて他の大学院に行ったり国に帰った留学生を何人も見ました。そのなかでもSchool of Foreign Serviceは一番きつい。そこを2年間で出られたんですか?たいしたもんだ。
中村:

でも会社に成績表を送らなければならないんだけど、はじめは送りたくなかったですね。最初のセメスターは2科目しか終わらなかったですし。最終的にはAが他よりも多いくらいで終りました。帰ってきてから半年くらいは夢をみました。あ、レポート出さないで帰国しちゃった、卒業させてもらえない、と言う夢です。

鈴木

私も似たような夢をみました。タイピングをしながらペーパーを書いている夢。ヴェトナム戦争中には、アメリカ人は、大学や大学院に残らないとヴェトナムに送られてしまう、そんな時代でした。だから大学も兵役逃れをさせているという印象を与えたくないので、どんどん落第させたものです。私は1968年からアメリカにいましたので、今でもよく覚えています。1976年はそんな厳しい空気がまだ残っていた時代ですね。



鈴木の一口コメント
中村忠男氏にはじめて会ったのは、1976年の7月か8月で、私たちの友人の家でのパーティーでした。当時、ジョージタウン大学の言語学の博士課程に在籍していた私は、10月に、博士候補者試験を控えて猛勉強中で、しばし頭を休めようと思い顔を出したのですが、中村氏はすでにすっかり出来上がっていて、大声で英語を話していました。碁も将棋もできない私に、You play neither go nor shogi? I can teach you how.などと言っていたのを覚えています。当時から日本文化に精通している教養人で、かつ、真摯に英語に取り組んでいました。それ以来、中村氏とは共通の友人を挟んでずっと交友が続いています。次回は、1970年代後半から始まる航空業界の戦国時代に、中村氏が英語でどのように交渉し国際路線を開拓したか聞きます。


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