TOEFL Mail Magazine Vol.72 October 2008
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生涯英語のすすめ For Lifelong English

様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。
英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。
英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。
[For Lifelong English|生涯学習としての英語]バックナンバーはこちら>>

第14回
世界が舞台 そして今日本文化を世界に発信する その2

鈴木 佑治 立命館大学生命科学部生命情報学科教授・慶応義塾大学名誉教授

鈴木 佑治 先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶応義塾大学名誉教授


今月のインタビュー

中村 忠男(なかむら ただお)氏

中村 忠男さん財団法人日航財団 常務理事
1950年生。東京大学法学部卒。
1972年日本航空入社。
2007年より現職。
ジョージタウン大学大学院国際関係修士(1978年)。
俳誌「春月」同人。




読者の中には大好きな英語をどのように活かしていこうか考えている方々も多いと思います。今回は、世界を舞台に英語で活躍するトップ・ビジネスマンのお一人の財団法人日航財団の常務理事 中村忠男氏にインタビューしています。中村氏は、東京大学法学部を卒業後日本航空に入社し、その後会社から派遣されて米国ジョージタウン大学大学院修士課程で国際関係論を学びました。修士課程を修了して会社に戻るや、中村氏は英語力、国際関係論の知識、体験を活かして世界中を飛び回り航空路線の開拓など様々な功績を残しました。現在は日航財団にて国際文化交流事業を管轄されており、その一環として俳句による文化活動を進めています。今年6月には日本の子供たちが作った俳句を英訳して出版し大変な反響を呼んでいます。中村氏がどのように英語能力を身につけ、国際交渉や文化活動に活かしてきたか、お話を伺いました。

お知らせ

中村忠男氏が、11月9日(日)放送のテレビ番組「NHK俳句」(教育テレビ日曜朝8時〜8時30分)にゲストとして出演する予定です!ぜひご覧ください。

前回その1を読む


機動力を求められた航空路線の開拓
鈴木:

ジョージタウン留学を終えて帰国してからはどうされましたか。

中村: 国際業務室という、国際航空の枠組みを担当する部署に行きました。民間航空の国際的な取決めは、路線、便数、運賃、この3つで決定されます。これが決まらないと定期便は飛べません。当時はこれらを基本的に2国間で決めていました。日本からある国に飛行機を飛ばすとき、日本とその国の政府で便数などを取り決めるんです。たとえば日本とタイだったら、2国間の航空協定で、日本側はタイに何便、タイ側は日本に何便、どこの地点に飛んでいい、といったことを決めるんですね。当時は運賃はIATA(国際航空運送協会)で決めてそれを各国政府が認可し、路線と便数は2国間で決めていました。
鈴木: その交渉は全部英語で?
中村:

基本的には政府間の交渉なので、双方の航空当局が交渉します。当時日本では国際線は日本航空しかなくて、オブザーバーとして交渉に参加したり、相手の航空会社と下打合わせをしてお互いに理解を深めておいてから、意見を航空局に上げる、ということをやっていました。

鈴木: するとそういう場に立会って交渉をするのですね。
中村: そうですね。留学中は割と緻密な勉強をしてきたのですが、帰国して担当した分野は、結構機動力や大胆さを要求されるような仕事でした。南回りのヨーロッパ便の担当になったものですから。
鈴木: 南回りのヨーロッパ便と言うとどういう便ですか。
中村: 今は日本の航空会社は飛んでいませんが、日欧間の路線はこのルートが最初のものです。それからアンカレジ経由の北回りが入り、今は、シベリアを飛ぶ直行便が主流です。当時はシベリア上空はいろいろな制限がありました。南回りヨーロッパ便というのはバンコク、デリー、テヘランなどを経て、パリやローマへというとても長い路線で片道30時間近くかかりました。長い路線だったことと、多くの国と結ぶためにそうなったのです。
鈴木:

なるほど。

中村: また、今は、直行路線が主流になりましたし、航空自由化も進んできましたが、当時は協定上の権利で厳格に規制されていた時代でした。そのため、協定上の権利がないところへは飛べなかったのです。例えば、東京・バンコク間でしたら、日本・タイ間の航空協定のみで済みますが、私の担当はそこから先、バンコクから例えばデリーに寄り、次にテヘラン、そしてアテネに、ということになりますから、日本とインド、日本とイラン、日本とギリシャ、というようにそれぞれの国との航空協定上の権利が必要となります。すべての関係国との間で権利がないと定期便を飛ばせない。会社がこういうルートで、どういう便を、何便飛ばすというような計画を立てると、その国との航空協定を調べ、権利がない場合には相手国と交渉しました。そういう仕事は、面白かったですね。
鈴木: はぁー・・・気が遠くなる話ですね。さきほど機動力や大胆さを要求されると言っていましたが、具体的にはどういうことでしょうか。
鈴木教授
 鈴木教授
中村: 例えば日本とオーストラリア間のルートなどでは、旅客需要の実績や見込みといったものを考えて話をするわけです。ところが、私が担当していたルートは、そういうものよりも二国間の協定上飛べるか飛べないか、ということが大きな問題でした。
鈴木: 数字ではなく、航空権益上また運航の安全が確保できるかどうか、という問題ですね。さきほど、テヘランと言ってましたが当時はイラン革命がありましたよね?
中村: ええ。私がアメリカから帰国した翌年、イラン革命は79年でした。当時テヘランは、南回りヨーロッパ線の大きなステーションだったので、革命が起こるとそのルートを通れなくなりました。そこで別の場所に寄るのですが、そこの国との航空協定上飛べるかどうかということを調べるんです。その他、救援便を出す出さないの話が出まして。
鈴木:

救援便と言ったって、大変な紛争ですよね。

中村: 革命が起こり空港も閉鎖していました。イラン在住の日本人はたくさんいましたから、その帰国のための便を飛ばしたい、とりあえず、アテネとかアンカラに飛行機を待機させて、飛べる状況になったらすぐに行くようにしました。そのような通常の定期便ではない飛行機を飛ばすのにもまた関係先と交渉や連絡をしました。
鈴木: そういうのを全部?
中村: はい。一番下っ端でしたけれど。
鈴木: すごいですね、それは。私は航空会社というのは、一般的には外国の乗客の対応のために英語を使うとかしか考えていなかったけれど、実際にはまったく違う仕事に携わっていたのですね。
中村: 実際に飛行機が飛べるか飛べないかという根本の取決めのところですね。
鈴木: それともう一つ重要なのは、その頃と較べてずいぶん航空法が変わったのではないですか。
中村: これはもう少し後になりますが、カーター政権以降の米国のとった自由化政策でアメリカを中心に航空の自由化が随分進みました。その後、日本も、航空会社を沢山認めよう、乗り入れを自由にしよう、と規制を少なくする方向に向かいました。こうした動きは、航空だけではありませんね。
鈴木: お話を聞いていると、航空会社の仕事も以前は随分とユニークな仕事があったように思います。航空法規や幅広い国際的な知識、現地の文化などを理解していること、英語力、そして相当の交渉能力と言うんでしょうか、そういうものが要求されるわけですね。
中村: そうですね。自分でやってきたことを振返って見ると、そういうことになるでしょうか。うまくいかなかったところもあるけれど、割合うまくいったのかな、と思います。

経験を広げるためホテル事業へ
鈴木: 航空協定の仕事をやった6年ぐらいの後はどうされたんですか。
中村: それまでかなり専門的な仕事でしたので分野が限られて、その専門家になってしまうと思い、もう少し幅の広いビジネスをしたいと思いました。ちょうどその頃日本航空がホテル事業を海外に拡張していて面白そうだと思っていたところ、声がかかったので、「ホテル日航」の仕事をすることになり、駐在員事務所を香港の日本航空オフィスの中につくりました。肩書きは「アジア・オセアニア地区主席駐在員」でした。
鈴木:

それは何年頃ですか?

中村:
中村さん
 中村さん
1983年ですね。中国が開放政策を推進し外資導入に熱心になっていた頃です。そのため、シンセンや広東省はじめ中国のあちらこちらからホテルをやってくれとお声がかかり、当時のJALホテルズが、北京のホテルのマネジメントを請け負いました。当時北京では、ウエスタンスタイルのホテルは、2つしかなかったんですね。するとそのホテルに、海外からのビジネスマンが皆泊りたがるんです。当時、中国ではホテルの宿泊料金がものすごく高くて、それでもホテルが足りないからなかなか予約が取れない。そんな中であちこちからホテルプロジェクトに参加しませんかと声がかかりました。それから、その頃英国と中国の間で香港の返還交渉が成立して、香港の土地のリース権のオークションがありました。それで、その土地をオークションで取得して、そこにホテルを作るということで、私も色々と直接関わりました。

鈴木: 実際に実務をされたのですか。
中村:

はい、マーケット分析をして、ホテルの基本コンセプトを作ったりしました。それから香港政庁の土地オークションに参加しました。翌日、私の上司が大きく新聞の一面に出ました。「こんな高い値段で」と。

鈴木:

日本はバブル前の時でした?

中村: そうです。香港の中国への返還が決まって最初のオークションだったので、皆慎重だったようです。その土地を取得して建物を作り、87年に営業を開始しましたが、その後香港では、観光客が増え土地の値段もものすごく上がって、結局その投資は成功でした。オーストラリアなど他のところにもホテルプロジェクトがあってそのマーケティング調査もしました。
鈴木: 今度はマーケティングが入ってきたんですね。
中村: ええ。それで、その前に比べるとずいぶん幅広いビジネスを経験しました。
鈴木: ジョージタウンでやった勉強の中でこれはビジネス部分が活きた事例ですね。ジョージタウン後の仕事の中で、前半は航空法規だとか交渉といったコンテンツが重要でしたが、ホテル日航ではビジネスも非常に重要だったと。
中村:

その後また幾つかの部門を経て、ホテル関係では日本航空の関連事業室のホテル部長をやりました。昔は拡張していたのですが、その頃は残念ながら整理の時期で、リストラクチャーの一環で売却交渉といったことを行ったわけです。あちこちのホテルの売却価値や条件をどうするか、交渉で詰めるわけです。それを契約書に落とし込んだり。ここがジョージタウンでの勉強が最も役に立ちました。

鈴木:

例えばどういうふうに?

中村: 国際取引とか法律関係の本をかなり読んでいましたから、早く理解した上で交渉に臨めました。ただ、交渉自体は、攻めるときと比べて撤退するときは難しい。こちらが弱いことを読まれていますから。入札などで適正な価格は決まる訳ですが、入札に適さない交渉もある。そういう場合、状況次第で条件が動くんですね。そういう意味では、基本方針と状況に応じた機敏な対応っていうのが大切ですが、なかなか難しい。
鈴木: なるほど、本当にビジネスですね。特に香港のような場合は、色んな事がうごめくわけでしょ?日本的な考えは通用しないとか。
中村: 香港や東南アジアの富豪という人達と話したり、一緒に仕事することがありましたが、彼らは経済分析、景気動向にも注目しますが、仲間同士のネットワーク情報網から色んな情報を仕入れたり、相場勘を相当働かしていたようです。安くなったところでホテルなどを買うんですね。彼らは自分のお金でやっていますから、即決です。

体験や知識を生かして教育分野へ
鈴木:

そういう仕事をしながらも、だんだん今度は教育に向かっていったっていうのは、興味深いところですね。日本航空は航空会社だけれど、教育や文化的なビジネスをやっているのですか?

中村: 80年代の多角化が叫ばれたバブルの時期もありましたが、バブルがはじけて、日本中が本業重視になり、付随的な事業は整理したり、あるいは独立していくというスタイルに変わっていきました。そんな会社の動きの中で今度は何をやろうかと思ったときに、私は教育が面白いんじゃないかと思いましてね。だんだん自分も歳をとってきましたから、若い人の役に立つような教育をと思ってJALアカデミーに行きました。ここに国際教育事業部というのがあって、主に企業向けに異文化間コミュニケーションのスキルを教える研修をやっています。そのほか接遇・接客マナーとかカルチャースクールなどもやっていますが、私が興味があったのが、海外ビジネスをする日本の企業のビジネスマンに英語も含め、異文化コミュニケーションスキルを研修するという仕事です。そこでは従来自分が大学や大学院で勉強した分野ではなく、カルチャーやコミュニケーションがテーマでしたから、とても面白かったし役に立ちました。
鈴木:

そのころ多くの企業の海外進出が多かったから、その研修をしたんですね。

中村:
中村さん
 中村さん(左)と鈴木教授
たとえば海外に技術者として派遣される方は、英語能力をアップするということで外国人英語講師が担当するのですが、マネージャーとして現地の人を含めマネージする立場で行く場合には、ただ語学の問題だけではなく現地の習慣や文化などをよく知らなくてはいけない。そういう人たちに対する研修の企画をしました。文化が違えば習慣とか価値観とか違いますから、日本では当たり前のことが違うということや、専門的なことでは雇用関係のことなどを教えました。例えば昇進とか昇給は国によってはきちんと説明しなくてはいけない。あなたはこうだから昇進させます、昇給しませんとか、毎年きちんと本人に言って、もし苦情申立てがあればそれに対して説明できなければいけない。あいまいな評価では済みません。それからハラスメントも含めセキュリティですね。どこの国に行っても日本と相当違います。実体験を持つ講師を招き、諸外国でのセキュリティに関する企業向け研修を催しました。

鈴木: 日本の旧来型の企業経営と相容れない部分や違いがありますよね。中村さんがその責任者をやったのには、それまでの色々な体験がベースになっていると思うんです。色んなところにも行かれたでしょうし、そういった経験を持ってる同僚もまわりに沢山いるでしょうから、会社の仕事の過程でそういうノウハウを蓄積していったわけですね。


鈴木の一口コメント
中村さんは淡々と話をしていましたが、1970年代後半からも世界は激動の時代でした。イラン革命の時には確かアメリカ大使館は占拠されて、逃げ遅れたアメリカ大使館の関係者がカナダ大使館に助けられて帰国できたとかなどという話も聞いたことがあります。また、モスクワ・オリンピックの直前にアフガニスタンで内紛があり、当地を旅行中の日本人観光客が何台ものバスを乗りついで命からがら隣国に逃げたなどという話も聞きました。世界がモザイク状に分断されていた時代に、その紛争地域に空路を開発するのは並大抵の努力ではなかったと想像します。今ではロシア上空を越えてヨーロッパに行けますが、これも中村さんのような専門家の地道な交渉がなければ実現しなったのではないでしょうか。中村さんが「文化の違い」と言うたびに重みが伝わってきました。いつか実体験を一冊の本にまとめられるものと期待しております。



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