写真や絵と違って言葉はわからない。これを読んでわかる人もわからない人もいるし、全部の意味がわかるわけではないし、違う意味に取る人もいる。それがすごく面白いし、それでいいんですね。たとえば「とんぼとり わたしがおにに みえるかな(2007年、小学1年生)」。英語訳はこうしました「Catching dragonflies / do they think / we are playing tag?」最初は本当の鬼として訳したんですが、最終的にはトンボが私と鬼ごっこしているというつもりで訳したんですね。このほうがかわいいかな、詩的かなと思って。でも作った子はもしかしたら本当の鬼のつもりで詠んだのかもしれない。
俳句ってそういうものなんです。作り手が半分、詠み手が半分、それが両方合わさって、ひとつ。作り手と詠み手が共通のバックグラウンドを持ってないとわからない。そういうものですね。僕がいいと思うのは、「病院へ もどるじいちゃん いね見てる Grandfather watching the rice plants / on his way back to / the hospital he has been admitted to. (2002年、小学5年生)」。一時退院してまた病院に戻るじいちゃんが稲を見ている、と。そのおじいちゃんの気持ちというのは書いていないけど、大人はよくわかりますよね。もう田んぼに出られることはないかな、田んぼを誰かちゃんと面倒見てくれるかな、それからもっと深く自分の家族や生涯のことを考えているかもしれない。体が弱っているおじいちゃんの気持は何も書いてないけど、「稲を見てる」って言葉だけで伝わってくるんですね。