TOEFL Mail Magazine Vol.73 December 2008
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生涯英語のすすめ For Lifelong English

様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。
英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、生涯学習としての英語や英語の魅力や英語の楽しさをお伝えしていきます。
英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。
[For Lifelong English|生涯学習としての英語]バックナンバーはこちら>>

第16回
思い出のSan Franciscoの町並みと英語の変化

鈴木 佑治 立命館大学生命科学部生命情報学科教授・慶応義塾大学名誉教授

鈴木 佑治 先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶応義塾大学名誉教授





 “For Lifelong English”は、今回で早くも16回目を迎えることになりました。これまでスポーツ界、音楽界、落語会、教育界、そしてビジネス界で英語を使い活躍している5名の方々を紹介して参りました。編集部より当連載も大変好評であるとのことで読者の皆様に改めて御礼を申し上げます。さて、来年2009年2月の新年号に相応しく、著名な言語社会学者である慶應義塾大学名誉教授の鈴木孝夫先生にご登場いただき、英語について3回ご高説を賜ることになっております。今回は2008年度の締めくくりとして、私がこの夏San Franciscoを訪れた際に思い当たったことを述べさせていただきます。


 今年の夏、久しぶりにアメリカの西海岸に行く機会があり、San Francisco湾岸のFremontという町に住む親友夫婦を訪ね2週間ほど滞在しました。私は、1970年代初頭に近くのCalifornia State University―Hayward校(現在のCalifornia State University―East Bay校)で日本語を教えた経験があり、この親友は当時の学生の一人でした。奥さんは、Hawaiiからきた日系3世で、私の紹介で二人は結ばれて結婚し、以来仲むつまじく小さな旅行会社を経営しています。
 親友は、San Franciscoの隣町Oaklandで生まれ育ちました。父親はスコットランド系で母親はフランス系で、2才年下の弟がいます。その父親は早くに他界し母親が小学校の教師をしながら2人を育てました。その母親は数年前に他界しました。弟も私の友達で、現在はSan Franciscoで観光バスを運転しながら観光案内をしています。親友も奥さんも60歳で弟は58歳です。私とは幾つも違わない同年輩ということで気の置けない友達です。彼らには娘が1人おり、UCLAを卒業し現在はUniversity of Southern California大学院で薬学を勉強しています。

 一見なんら変哲もないごく普通の中産階級のアメリカ人ですが、日本では味わえない変化を体験してきました。San Francisco湾岸で生まれ育った同年配の人たちなら誰でも味わっているでしょう。今回は、それがどのような変化であったかを、親友の体験を通して語りたいと思います。というのは、言語状況の変化をはじめ、いずれは日本でも起きうる変化であると思えるからです。
 親友が生まれて育ったのは、Oakland市の東地区、通称East Oaklandです。Californiaではスペイン統治時代から海岸沿いに一本の道が走っています。英語ではMission Street (布教の道)、スペイン語ではEl Camino Realと呼ばれています。かつてカソリックの僧侶が布教して歩いた道で、その道に沿ってカソリックのお寺が建造され、周辺に集落ができて都市に発展していきました。その代表的なのがSan Diego, Los Angeles, Santa Barbara, Santa Maria, Santa Cruz, San Franciscoなどです。布教に尽力した聖人の名前などカソリックにちなんだ名称が多いのはその為です。

 Mission Streetは、Oakland市内に入ると14th Streetになります。その通りを1番街(1st  Avenue)から始まり百何十本の道が東西に交差しています。親友が生まれ育った家は100th Avenue (100番街)にありました。この通称East Oaklandは戦前から戦後1950年中頃までは白人区域でした。親友は生徒のほぼ全員が白人で占められた近くの小学校に通いました。中学生になる頃にアフリカ系アメリカ人が移り住み、私が親友と出会った1970年にはすっかりアフリカ系アメリカ人の居住区になっていました。100番街に住む白人家族も親友の家族のほか1軒残すのみでした。

 1960年後半から1970年前半のEast Oaklandは、New YorkのHarlemやLos Angelesのワットなどに匹敵する大スラム街(slum/ghetto)になりました。Huey NewtonやAngela DavisらがBlack Panther Partyという過激派のグループを立ち上げたのもこの地域でした。公民権運動を成功させアフリカ系アメリカ人の公民権が確保されたものの、提唱者のKing牧師は1968年4月に凶弾に倒れてしまいました。その後も差別による格差は是正されず、アフリカ系アメリカ人の若者の中にアメリカ社会に対する不信と失望が広がり、その苛立ちがKing牧師の主張とは逆に非合法暴力に向かいつつある時でした。これらのスラム街では暴動が頻発するようになりました。
 親友の母親は小学校の先生でアフリカ系のアメリカ人の境遇にとても理解がある人でしたので、危険な場所だと言われたこの地域に住み続けたのだと思います。とはいえ、思春期の親友には大きな変化であったに違いはありません。しかし実際は言われるほど危険なところではなく、隣近所のアフリカ系アメリカ人の家族となんらトラブルもありませんでした。私は毎週のように親友の家に行って家族と一緒に食事をさせてもらいましたが、界隈を歩いていて危険な体験をしたことは一度もありません。

 それでも、街角で顔の白い親友と黄色人種である私が歩いていると、見知らぬアフリカ系アメリカ人に怪訝そうな顔で見られましたし、親友の方は不快な言葉を浴びせられたこともあります。アフリカ系アメリカ人が白人から受けた差別を考えるとなんでもないと言って別に気にはしませんでした。私も、Richard Wrightなどの黒人作家に興味を持っていましたし、King牧師を尊敬していましたのでとてもよい体験でした。親友の母親の用でアフリカ系アメリカ人のマーケットによく買い物に行ったりするうちに、アフリカ系アメリカ人の人たちと会話をするうち彼らの英語が分かるようになりました。今でも懐かしい思い出として残っています。

 しかし、1970年中頃を過ぎると治安が悪化し近所のマーケットが次々と閉鎖され住みにくい場所となり、親友一家はFremontの新興住宅街に引越しせざるを得なくなりました。当時のFremontは白人のコミュニティーでした。マイノリティーも住んでいましたが、いわゆる「名誉白人」と呼ばれた日系人などでした。ここで親友夫婦は小さな旅行会社を始めました。彼らの顧客は平均的な中産階級の白人で、経営も順調でした。終戦直後から1950年代のEast Oaklandもそんな感じではなかったのでしょうか。かくして平穏無事に1970年代後半から1980年代が過ぎていきました。

 1990年になると彼らの住むFremontの環境が一変しました。1970年の後半からアメリカに渡ってきたベトナムなど東南アジアからの移民の人たちの中で、ある程度生活にゆとりが出来た人たちが、Fremontのような郊外の町に移り住んできました。続いて中国本土やインドからの移民の数も増えました。親友の家の裏に住んでいた白人家族はインド人の医者の家族に家を売り出て行きました。それを機に色々な文化摩擦が生じたのです。
 親友の家族友人が集まって庭でバーベキューをしながらハンバーガーを焼いていると、隣のインド人の紳士がやって来て「聖なる牛を焼く匂いを嗅ぎたくない」と苦情を言ったりしました。親友は「ここはアメリカだ」と言い返していましたが、回りには白人系の住人よりもインド系住人の方が数で勝っていたので説得力がありません。店の様相も変わりました。それまではアメリカの中流階級の価値観で顧客に対応すればよかったのですが、それでは通じなくなりました。東南アジアやインドでは値切るのが常識ですから、航空券を1ドルでも安くしようと値切るのです。かつての顧客は逆にチップを置いていったのですから、そのギャップはあまりにも大きくてひたすらショックを感じるのみであったと言います。
 California全域で水不足などが深刻になりますます住みにくくなると、中産階級の人たちがWashington州やArizona州に大移動を始めました。去った後には、農場に出稼ぎに来たメキシコ人や東南アジアからの移民が住み着きました。かくしてかつてはマジョリティーであった白人は突如マイノリティーになりました。

 1992年と1993年の夏、私は家族を連れてFremontに2週間ほど滞在しました。増え始めたアジア人に対する露骨な嫌悪感が充満し、加えて、ジャッパン・バッシングも酷くなり私たち家族もいやな思いをしました。California州は特に酷かったような気がします。親友はアジア人に対して嫌悪感こそ持たなかったものの、周囲の変化について行けずショックを受けて塞ぎ込んでいました。彼は突如東南アジアかどこかの見知らぬ国に放り出されたようなショックを感じたと後で告白しています。Oaklandでアフリカ系アメリカ人と上手に順応した親友でさえこの急激な変化にはてこずったようです。
 San Franciscoは1960年後半から1970年前半は、誰でも受け容れる自由な町として、アメリカ全土より若者が集まり、スマイルと花で溢れたまさしく「花のSan Francisco」でした。誰の顔からもスマイルとHi!が自然に出てくる街でした。しかし、1992年と1993年に訪れたSan Franciscoには、そんな友好的イメージは無くギスギスした雰囲気が漂っていました。それを最後に、私はSan Franciscoを避け、もっぱらWashington D.C.を中心に東部と南部に行くことにしました。

 今回は10数年ぶりのSan Franciscoでの滞在となりました。Fremontの町は住宅や大型商業施設で埋まり、かつての田園風景はもはやありません。ただ東の方角の小高い山並みに広がる牧場は、今も変わらずに黄色く夏枯れてCalifornia特有の風景を漂わせています。以前より一層多くの人種が移り住んできたようです。若者たちの間では人種単位の行動が際立っているものの、排他的ではなく買い物やゲームを楽しんでいました。町のガソリンスタンドやレストランの従業員の多くは移民で、標準語が通じないこともしばしばです。10数年前とは違うのは、みな親切で丁寧であるということです。セルフサービスのガソリンスタンドの使い方が分からず困っていると、従業員が出てきてベトナム訛りの英語で教えてくれました。ただし、何を言っているのか半分くらいしか分からずに閉口しましたが、彼の親切な気持ちは十分伝わりました。
 かつてはこうした英語は東南アジアでしか聞かれなかったかもしれません。今や英語の本場であるアメリカ合衆国で飛び交っているのです。ある場所ではこうした非標準英語の方が大勢を占め、標準英語はほとんど聞かれないのです。こうした英語を受け容れないと本場アメリカでも不自由な思いをすることになるのです。1992年と1993年に私の親友はこのような問題に直面していたのです。当時の彼はそれを受け容れることができず戸惑いましたが、現在は、こうした変化を受け容れて店の営業も順調に進んでいます。

 私はかつてのEast Oaklandの14th Streetを車で走ってみました。ここでも変化が起きていました。あのアフリカ系アメリカ人の大コミュニティーは、今では、ヒスパニック系と東南アジア系の移民の街になっていました。あれほど大勢いたアフリカ系アメリカ人はどこに行ったのでしょうか。そういえば、San Francisco市内でもかつてよく見かけたアフリカ系アメリカ人の数が少なくなったように思えました。左折して100th Avenueに入りかつての親友の家を見に行きました。ありました。白壁の家は昔と少しも変わっていませんでしたが、窓にかけてあるオーナメントから察するにヒスパニック系の人が住んでいるのでしょう。
 そのままBerkeleyに入りUniversity of Californiaに行ってみました。今も昔の名声を保つ世界のトップ校です。1968年にリリースされた映画「卒業」でもこのキャンパスが出てきます。当時はもっとも人気のあった大学で、全米から学生が集まってきました。私はその頃にこの大学の図書館をよく利用しましたが、映画を見れば分かる通り当時の学生の大部分は白人でした。今は、殆どがアジア系の学生です。中産階級の子女が多くみな標準英語を話していました。

 しかし、Berkeleyの街を出て隣のOaklandに入り、上述した14th Streetに戻ると、様々な国からきた移民が住む街の喧騒が続きます。そこではまったく異質な英語が飛び交っているのです。ピジン、リンガフランカという範疇に入れられない次世代の機能言語というか、とにかくバイタリティーを感じるのです。言語タイポロジーの研究ではピジンにはバイタリティーがないとの分析がありますが、とするとこの英語はバイタリティーに富むのでピジンではないと言ってよいでしょう。
 現在の日本ではこのような状況はなく、基本的には日本語で日本人だけを相手に生活できます。San Francisco湾岸で生まれた私の親友も少年時代は白人だけを相手に生きていくものと思っていたようです。グローバル化の波が日本だけを通り過ぎて行くとは思えません。それでは日本が置いてきぼりにされてしまいます。親友が体験したことはいずれ私たちの子供たちも体験することになるでしょう。しかし、我々日本人はテクノロジーの変化には順応しましたが、制度や文化の変化には不得手ですから、今のままでは順応できません。

 例えば、日本の英語の教育は、アメリカやイギリスなどの英語圏では誰もが標準語を話すことを前提としています。こちらが話しても相手が話さないことを前提としていません。日本と同じようにアメリカでは画一的な文化と言語を共有しているという非現実を前提としていないでしょうか。英語がグローバル化して色々な変種が存在し、それらが飛び交う英語の世界にもう少し目を向けるべきでしょう。Lifelongに付き合う英語にはそのような視点が必要です。自分がどのような英語を話すべきかだけではなく、世界がどのような英語を話してくるかという視点も必要ではないでしょうか。
 こんなことを考えながら、San Franciscoを離れてArizona州に行き、Grand Canyonを抜け、目的のHopi族の居留地に行き博物館でHopi族の資料を見に行きました。土地の保有を求めて当時のHopi族の長老がアメリカ政府と交わした英語の手紙がありました。Hopi語を翻訳したものですが、後に、人類学者かつ言語学者であるEdward Sapirが指摘している通り、あまりにも文化と価値観が違い、長老の考えが正確に反映されているか疑問が湧きます。館長に聞いたところ、今ではHopi語を話せる人はいないとのことでした。ちなみに、ここで会ったHopi族の人たちは全員標準英語を話していました。

 私は、1968年9月この辺りをGreyhound Busで通ったことがあります。トイレ休憩中に待合室にいると、Navajo族の老人がやってきて私にNavajo語で話しかけてきました。Navajo族にNavajo族と間違えられたのです。英語で日本人だと言うと老人も英語で答えました。「同じ人種だね、同じ肌の色だ。兄弟だよ。」その英語はブロークンで普段は母語のNavajo語で生活をしていることを物語っていました。しかし今ではHopi族の隣に住むNavajo族もみな英語の標準語を話していました。残念ながら予想したとおり、Navajo語はついぞ聞けませんでした。ピジン化した英語は普段の生活では母語を話すことを想定します。Fremontのガソリンスタンドの従業員は家ではベトナム語を話していることを物語っています。それはよいことなのです。

 50度近い砂漠の町であのNavajo族の老人にNavajoと間違えられた時の快感を思い出しながら不安になりました。あれは幻であったのか、そういえばあの時あちこちに見えたプエブロはどこに行ったのであろうか?砂漠の蜃気楼であったのだろうか?その横をHarley Davidsonに乗った一団がやってきました。デジャブなのか、あの時も確かこんな一団が通り過ぎる中、Navajo語と英語が耳に入ってきた記憶がよみがえります。そして轟音とともに通り過ぎていきました。60代のアメリカ団塊世代の一団でした。昔の記憶をたどる旅なのか明日を求めての旅なのか。
 いずれにせよアメリカは自由です。懐の広い国です。色々な事がありますが、多くの国から移民を惹きつける何かを持っています。数年前にVirginia州のJamestownでインタビューしたPocahontasの末裔のネイティブ・アメリカンのリーダーが、彼らが受けてきた不当行為を放任したアメリカ政府を厳しく批判した後、ポツリと言いました。「しかし、堂々と批判する権利を保障するこの国はいい国だと思う。」失われつつある自分の文化を護りながら刻々と変わるアメリカ社会で生き残ろうとする小集団グループのリーダーのことばは重い。

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