様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。
鈴木 孝夫(すずき たかお)先生
慶應義塾大学名誉教授
慶應義塾大学医学部入学後 文学部英文科に移籍し卒業
ミシガン大学及びカナダ・マギル大学に留学
後にイエール大学及びイリノイ大学客員教授
ケンブリッジ大学客員フェロー
日本野鳥の会顧問
鈴木 佑治(聞き手)
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授
鈴木佑治:慶應義塾大学名誉教授・言語社会学者の鈴木孝夫先生にお話を伺うシリーズも最終回となりました。今回は、鈴木孝夫先生から読者の皆様へのメッセージをお送りします。
鈴木佑治:次にご紹介したいのがこの本『人にはどれだけ物が必要か』です。これは環境問題としても多くの人、特に若い人に読んでいただきたい。ごみとして扱われているものだけでなく、制度とか、はたまた言葉も含めて、人間がつくってきたものには捨てるものは何もない。それが先生の生涯かけられたメッセージのような気がするのですが、いかがでしょうか。
鈴木孝夫:うん、年輩の人はほとんど知っていらっしゃるけど、『人にはどれだけのものが必要か』という題はトルストイの民話の「人にはどれだけの土地が必要か」を踏まえたものなんです。それを私は小学校6年だったかに読んで感激した。ある農民が、一生懸命自分の土地を耕したら収入がどんどん増えた。隣の土地も買って耕したらまた増えた。そしてどんどん大地主になってゆく。でも欲はきりがなくて、遠くの国で安い土地がいくらでも手に入ると聞いて行くと、1日グルっと歩いた土地が全部あなたのものですよと言われる。ただし条件が1つあって、出発点から歩き出して太陽が沈むまでに戻って来るということ。それで喜んで出かけて行って、ここは小麦に合う、ここは牛を飼うのにいいって、歩いているうちにどんどん欲が出るわけ。それではっと気がついたら太陽が傾いてきている。でもまだ出発点の丘は遠い。もう必死になって今度は出発点に向って直線で半狂乱に走って帰って行く。それで必死で丘を駆け上がって、出発点に手をついてバタンと倒れた。あなたは世界一の大地主になったと人々が言ったとき、その農民は血を吐いて死んでしまったというお話。結局、この人にとって必要だった土地は、亡骸を埋める1メートル四方だけだったということです。人間の欲っていうのはきりがなくて、初めはお金を儲けてあれしたいこれしたい、楽しいことしたい、病気治したいというのが、いつの間にかその儲けることによって病気になったり、離婚したり。そして財産の問題が起こったり、子どもは不良になったり、強盗が来ないよういつも警備員が10人ぐらいいて外出もままならず自由もなくなる。何のために金を儲けたのかっていうのが、人類全体に起こっている。少し飲むだけで効く薬を、効いたからと言ってどんぶり一杯飲むと毒になる。つまり何ごとも損益分岐点を越すと、良し悪しが逆転してくるんですね。ものには本質的に良し悪しがあるのではなくて、自分にとってそれが意味があるかどうかが良し悪しを決める。そういう考え方が私には子どものころから頭にあるんです。日本の戦前の中産階級やヨーロッパではありとあらゆるものを大事に使うっていうのが普通だった。世の中が変わって、消費が美徳になって、使えるものでもどんどん捨てていった。それが日本の高度経済成長だったのね。世界も。それが私は嫌で、20年間近所に捨ててある新聞紙を朝晩拾って古紙問屋に持って行ったりした。今はリサイクルのルートがありますけどね。自分に必要なものを必要なだけ持てば、捨てるものはなにもないんです。
鈴木佑治:ご自分でおめしになっている背広などもリサイクルとのこと。
鈴木孝夫:たいてい亡くなった知り合いの方から貰ったもの。だってどうせみんな燃やしちゃうから、親戚とか親しい友達から貰ってくるわけ。こういうことをする理屈は、洋服の元となる羊と牛は、温室効果がすごいんですよ。草食動物で胃が4つあるでしょう。反芻動物のゲップとオナラっていうのは炭酸ガスの15倍ぐらいのメタンガスが出る。それがオーストラリア、アメリカの家畜の何十億頭から出ている。その大気汚染がすごいんです。だから出来るだけ少ない羊、少ない牛で人間は無駄なく幸福を享受しなければいけない。そうすると、まだ着られる洋服をすぐ焼いちゃって、新しいものを安く買う方が合理的だっていうのは、いわゆる人間中心の経済学の古い考え方で、地球全体のことを考える時代になってくるとそれはよくない。私だって裸じゃいられないし暖かくもしたい。でも新品でなければ困るわけではない。だから人の着た洋服だって外套だって帽子だって、僕が着れば最高のブランドに見えるという確信を持って着ている。全部主観、つまりどう考えるかの問題です。自分に自信を持つこと。これはこのインタビューでもずっと言ってきたように、英語でもそうです。イギリス人の英語がわからないから俺が悪いっていうのが今までの日本人だったけど、今は僕の英語がわからない?あなたもうちょっと勉強したら?とネイティブに言い返すくらいの自信を持てばいいんだ。
鈴木佑治:先生は鳥の種類はなんでもご存知ですし、どのようにさえずり、何を言ってるかもお分かりになるそうですね。
鈴木孝夫:そう。私は戦後の日本言語学会の例会で、「鳥の言語と人間の言語の構造的類似」という講演をしたんですよ。そうしたらね、頭の固い長老が、鈴木さんの発表は大変面白かったけれど、果たしてこれは言語学の発表と言えるでしょうか、と言うんです。僕は人間の言語起源に非常に興味があるし、時代が変われば、知識も変わってくるから、人間の言語の初めは多分こうじゃないかというのは、サルの言語の比較とか、鳥とか色々出来ると思ってるわけですよ。それで私は鳥が趣味だし、しかもサルよりも鳥の方が人間の言語を解明するのに役に立つんです。なぜならサルにこんにちはと言ったら、向こうはこんにちはとは言わないんです。でもオウムはこんにちはと言うと、こんにちはと返すんです。九官鳥もうまい。口や喉の構造がどうということではなくて、外界の音を刺激として自分が取り込んで発信するという能力がサルにはなくて鳥にはあるんです。だから、「発信」という意味での人間の言語を研究するなら鳥を研究すべきなんですね。そこで私は九官鳥もオウムも飼ったことがあるし、鳥の趣味の脇道が俄然僕の専門につながってきたわけです。ところがほかの言語学だけが専門の先生は、人間が一番動物の中で知能が高くて次はサル、だからサルの発声現象を研究すれば人間の言語がわかるだろうと思った。それで前世紀からヨーロッパやアメリカで莫大なお金をかけて熱帯のサルを生け捕りにして、一生懸命、パパ、ママ、カップとか教えたけど成功していない。つまりサルの頭には音声をまず記憶してそれを再現する回路がない。反対に鳥はそれがあるっていうのが江戸時代の飼い鳥の歴史からよく分かっているんです。それはね、ひばりはピイチク、鶯はホーホケキョっていうのは、実は生まれつきじゃないんです。親鳥の声を聞いて一週間や10日で覚えるんですよ。だからいい親鳥が鳴くと、子もいい。日本の飼い鳥の何百年という伝統では、そのために本当の親ではない、いい先生を見つけていい声で鳴かせ子どもに教えるという付け子というのがあるんです。私はそのことを知っているから欧米の学者よりも強かった。鳥の声は、親から子への遺伝ではなくて学習です。人間もまさにそう。鳥の趣味も言語学に役立った。まさに捨てるものは何もないでしょう?
鈴木佑治:最後にTOEFLテストを受けたり、アメリカに留学したい、英語を勉強して学びたいという読者にメッセージをお願いします。
鈴木孝夫:しばらく前に、「アメリカを知るための英語、アメリカから離れるための英語」という長い題の本を書きました。米国に私がはじめて行った1950年頃は、台所ではお湯が出るし、食物は豊富で高速道路もあって、まさにこの世の理想郷みたいだった。日本もああなりたい、うらやましいと思った。このようなアメリカの暮らしが今に日本にくるのだろうかという憧れとか胸のときめきがあった。ところが、日本はアメリカを今や追い越してしまった。健康保険や治安でも上です。だからアメリカに見習うために行くんじゃなくて、世界をまかり間違えればひっくり返しかねない恐ろしい底力のあるアメリカを知って、日本を守るために行ってほしい。でも今はアメリカと日本は一蓮托生で太い絆でつながれてる。だからどうやって賢くアメリカのマイナスをプラスにしていくか、そういうことを研究する人が増えなければいけない。だからアメリカに行って勉強するのもいいけれど、時にはアメリカの先生や同僚に鋭く質問したり激論したり、そういう緊張感をもった学習をこれからの人にしてもらいたい。これまでのようにただおとなしく習うだけではダメです。事実ドルはすごい勢いで下がっているでしょう。ユーロも下がりました。結局日本は今世界で一番良い国なんですよ、先のことはわからないけど。だからその良い国の国民がその自覚を持って、自分の良さを知ってアメリカに行き、アメリカから学ぶ、教えてもらうのではなくて、英語で語ることによって日本の良さを広めることを始めるべきです。
だから日本の学生が自分の国の良さを知った上でTOEFLテストを受けてアメリカに行くことは、周りに人垣ができるような魅力的な英語で話す好機会だと考えればいい。もちろん話すとき聴衆の反発を招くような下手な話し方じゃだめ。私は外国で講演するといつも日本人じゃないですよねと聞かれる。それは英語がどうこうではなく、私のもつ雰囲気や発想が日本人的ではないということなんですね。でも私は日本人として生まれたから、日本のことを外国人よりはよく知ってる、だけれども私は日本社会にドップリと浸っていないから、アウトサイダーの視点をも持ってるから、私の日本分析をなるほど、それならわかると言ってもらえるわけです。だから日本はアメリカにもまだまだ学ぶものはありますが、アメリカも日本の話を聞いて大いに学んでほしい。ところがアメリカや中国では外国語を学ぶベクトルが、外国をどうするか、相手をどう変えるか、どうひねりつぶすか、ということに重点が置かれている。反対に日本の外国語教育の伝統は相手無視の内向きで、自分をどう高めるか、国内だけに目が向いているということ。このベクトルの違いが、日本はおとなしくていい国だけど、同時に口のしびれた自動金銭支払機って言われる原因です。だからもうちょっと日本人が日本はこういういい国だよっていうことを外に対して言わなければいけない、そのためには英語教育を受信から発信に変えなければいけない。その結果を英語で話す。それが外交の腕です。外国人を笑わせながら日本は良いなあって思わせる。だからパーティーなんかでは人気者になってまわりの人に聞く耳をもたせることが大切。そうするとあとは漢字の話だろうと何だろうと聞いてくれる。面白くて腹よじれるようにして真理を教えていくと、それが外交になる。そのためには何よりも自分の国、日本の文化に自信をもつこと。俺こそが世界を変えられるかけがえのない一人なんだと。人生気迫です。そういうことをTOEFLテストを受ける人たちに伝えたい。私なんてダメ、自分なんて何の力もない、と卑下してはいけない。そういうつまらない人間が何十億と集まって現在地球をだめにしてる。限りある人生を毎日毎日、万歳!俺が変えるぞ、俺の力で世界を変えて見せるぞと過ごすべきです。私なんて嬉しくってしょうがないんですよ。生きてるって事は本当に素晴らしいことなんです。
自分が変われば地球が変わると自信をもつ、すると本当に世界が変わる。全ての始まりは一人ひとりの自覚と自己評価です。地球を良くしていってください。
私は、鈴木先生の著書の中で、言語、文化、コミュニケーションの真髄を語られているのは、『人にはどれだけ物が必要か』という本ではないかと思っています。マーシャル・マクルーハンは、「メディアはメッセージである」と述べました。マクルーハンにとってメディアとは人が作る全てのartifacts「物」を指します。確かに職人が作る物には何らかのメッセージがあります。ですから物々交換はメッセージの交換でもあるわけです。さて、先生は、1980年代のバブル期に多量に捨てられた粗大ゴミから使えそうなものを集めて修理し大切に使われました。時にはお金が無くて家財道具をそろえることが出来ない留学生に無償で配り大変喜ばれたと伺ったことがあります。先生は捨てられた「物」から「まだ捨てないで使ってくれ」という悲痛なメッセージを受け、修理することにより新たにメッセージを吹き込んで蘇生された。大量生産された物々が、使うだけ使われて古くなるとメッセージがないものとして捨てられていくことへの批判であると思います。さて、人が作った「物」の中に言語があります。日本語、中国語、朝鮮語、アラビア語、ロシア語などの主要言語から少数言語にいたるまでその一つも忘れてはならない、捨ててはならないというメッセージを感じるのです。この本と『ことばと文化』や『武器としてのことば』は深いところで繋がっているような気がします。自然や動物に優しい先生の生き方が、捨てられた物にも向けて書かれたように思えるのです。