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インタビュー

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昭和女子大学教授・増澤史子先生。ビジネスイングリッシュの著書も数多く、NHKラジオ「やさしいビジネス英語」のテキストでは昨年まで15年にわたり連載を執筆されており、ご存知の方も多いのではないでしょうか。今回は、増澤先生の英語との出会いから、最近の英語教育事情まで様々なお話を伺いました。

増澤史子(ますざわ・ふみこ)先生

増澤史子(ますざわ・ふみこ)先生
大分県大分市出身
高校時代AFS交換留学で1年間アメリカへ
東京教育大学(現筑波大学)卒
ミシガン州立大学大学院卒
旭化成工業株式会社 (現旭化成)入社
現在 昭和女子大学人間文化学部 教授

1.プロフィール

英語との出会い

編集部:
先生の英語との出会いはいつ頃なのでしょうか。
増澤:
私の場合、初めての外国との接点は幼稚園です。入園した幼稚園が私立のカトリックで、そこの神父さんがイタリア人だったので、最初に接した外国人はイタリア人です。大分市は、田舎でありながらフランシスコ・ザビエルの影響などで、学校や病院が早く始まったりなど西洋文化の洗礼を受けています。別府湾に船が着いて、船員さんたちがいつも出入りするので、国際的な環境であったと思います。そんな中、母の友人が商店を経営していて、同じ商店街の「おばちゃん」に息子に英語を習わせたいけど一人だと絶対行かないからと私を誘ってくれまして。それが10歳の時です。教えてくださった人は日本人ですが、生まれも育ちもシアトルで英語のネイティブでした。そこから私の英語との出会いが始まりました。その先生が、洋書しかない図書館の英語サロンに、小さい私をよく連れて行ってくれました。そこで初めてアメリカ人の先生夫妻に会って、握手しなさいと言われ、”How do you do?”と言って通じたのが嬉しかったことを覚えています。その後たまたまそのアメリカ人の先生が私の中学校(大分大学付属中学校)に赴任してきました。偶然が重なって、田舎にいながら東京の人よりも、むしろネイティブに接していたという事実があります。

高校留学

増澤:
高校ではAFS交換留学で運よく選抜されアメリカに行きました。ところが、留学先の学校が通常は交換留学は公立高校ですが、私は私立のPrep School(寄宿舎学校)でした。生徒の3分の1は家庭から通っていて、その家庭にホームステイしました。東海岸随一の女子校と言われていて、全生徒が大学へ行く、いわゆる東部の名門受験校でした。映画で見ていたアメリカの高校生は遊びまくっているというイメージがありましたが、この学校の生徒は、勉強する人は夜中の2時3時までもしているのです。また、ワシントンD.C.の郊外だったので、博物館や美術館、コンサートホールなど色々と文化的に恵まれていました。「よく遊び、よく学べ」をまさに実践していました。
編集部:
言葉に苦労はありませんでしたか。
増澤:
“Do you like~?”などサバイバルレベルの会話は出来ましたが、ディスカッションなどは夢のまた夢でしたね。その時に学んだことは、もしある程度、英語を話せたとしても、共通の人やものを知らないとまったくコミュニケーションはとれないということです。また、リスニングに集中しているので毎日病気のように疲れました。それでもnegative question (否定疑問)に対してYes/Noを1ヶ月で修得できたことを意識的に覚えています。忘れもしない、困ったのが電話で、最初は誰もいないときに電話が鳴ると出ようかどうしようか、電話の周りをうろうろしていました。慣れてきたら小さな子どもと一緒で今度は電話に出るのが、楽しみになりました。ホストファミリーは、父親がジャーナリストで、セントルイス新聞のワシントン支局長でした。帰宅時間は遅いのですが、夕食は皆でテーブルを囲んで食べるのです。母親の最初のことばがいつも父親に、”What’s new in the world today?”なんですよ。それで今日起こった出来事とか、学校で起きたことを全部順番に言わされます。ディナーが毎回2時間、終わるのが9時とかです。まるで授業ですよね。母親も元ジャーナリストで、いい意味の教育ママですから、私がわからないと言うと、Websterをテーブルにすぐに持ってきて、それはこういう意味だとか、スペルを全部言って説明してくれるんです。暮し始めてすぐにもらった、父親からの最初のプレゼントがCollege Websterでした。
この高校留学時代の交流はいまだに全部繋がっています。2006年にその高校が創立100周年を迎え、同窓会に呼ばれましたが、同窓生がそうそうたるメンバーで、ジョージ・ワシントンの子孫(正確には奥さんのマーサ・カスタスの子孫)や、ワシントン・ポストのオーナーのキャサリン・グラハムや、グッチの娘、タイム・ワーナーの娘などがいます。この学校のネットワークが今でも私の宝です。

大学時代、ミシガン州立大学院時代

増澤:
アメリカに1年間いて、日本の高校に戻って半年で受験して、現在の筑波大学、前東京教育大学入学のため東京に来ました。文学部でしたが、授業が始まってから迷いました。アメリカの高校のレベルが高かったので、大学2年までにやることは、すでに全部やっていたのです。でも出会いとは面白いもので大学2年のとき、あるルートから、コロンビア大学のスーザン・ファー氏(当時院生)が、戦後教育を受けた日本における学生運動とウーマンリブの100人の女性について博士論文を書くので、インタビューをしたいので通訳する人を欲しいと言われ、勉強になるからということで引き受けました。昭和を代表する方々をはじめ、5、60人の話を聞いて通訳して歩くのは、とても勉強になりました。市川房枝さん、赤松良子さん、鶴見和子さん、学生運動に携わっていた方、前日に刑務所から出てきた赤軍派など。中学卒で日本で革命が本当に起きると信じている人の話を聞いた後などは眠れないくらいにショックでしたね。京都の同志社の寮に一週間泊り込みでインタビューしたときは、京都弁だとやわらかく聞こえる内容が英語に訳すと大胆なことを言っていることがわかったりと、色々学んで開眼しました。大学4年のときには日米学生会議に参加しました。私はEducation Tableでしたが、ここでのネットワークも私の大事なものの一つになりました。この時私は日米会話学院の同時通訳科にも通っておりました。今で言うダブルスクールです。それから少し仕事をして、卒業してミシガン州立大学の大学院に留学しました。当時、石油ショックで米国の奨学金がほとんどカットされ、奨学金の道が閉ざされていたので、なにか収入が入る道がないかと思っていたところ、TA(Teaching Assistant)のポジションが空くという情報を当時の同時通訳の先生にいただき、早速にアプライしました。その時に推薦状を書いてくれたのが、現在ハーバード大学ライシャワー日本研究所所長のスーザン・ファー氏でした。その過分な評価を受けた推薦状がよかったので、仕事をもらえたのだと思います。なんの伝手もない大分から出てきた者ですが、偶然と人のご縁が重なって、アメリカも含め人脈がどんどん広がっていきました。偶然と口コミの人生ですよ、私は。

民間企業での翻訳業務~ビジネスイングリッシュのルーツ

編集部:
留学からのご帰国後はどのようなことをなさったのでしょうか。
増澤:
ミシガンでの留学を終えて帰国し、大学の先輩でもあり、当時慶応の教授の紹介で旭化成工業株式会社総務部外国文書課に就職しました。契約書の翻訳、FAX、テレックスなどのビジネス文書、コレポン、国際会議のテープ起こしなどが主な仕事でした。アメリカの大学院を出て今までの人生で一番英語が出来ると思っていた矢先に、鼻っ柱を折られちゃいました。日本語がだめで、法律文書とか専門用語が出来なかったんですね。法律辞典を読むなど、勉強になりました。たまたま私が担当したのが、当時花形だった医療機器と、ダンピング訴訟と、濃縮ウランです。まさに日本が直面していた問題でしたね。
編集部:
現在教えていらっしゃるビジネスイングリッシュのルーツはここにあるのでしょうか。
増澤:
そうです。ミシガン州立大学では社会言語学を勉強していたので、社会における英語という意味ではもともとビジネスで使われる英語に興味がありました。いずれは教えたいと思いつつ、最初はやはり社会でどう使われているかということを勉強してからの方がいいと思って、そこに就職しました。

昭和女子大で教職に

編集部:
いずれ教えたいというお気持ちは、この後どのように実現されたのでしょうか。
増澤:
旭化成にいたときから、土曜日は非常勤講師として日本女子大学附属高校でリスニングだけ教えていました。そのころ、昭和女子大の理事長をご存知の方がいて、昭和女子大に外国人の先生を紹介してくれと言われました。紹介者が私の履歴書を理事長に見せたときに、私に興味を持ってくれたのです。でも当時は旭化成に入社したばかりでしたので、もう少し経ったらご相談しますということにしました。その時代は、翻訳業務でのインプットと、土曜日の授業でのアウトプットのバランスがよく保たれていて、非常に充実した生活でした。その後、そろそろ教職にという時、はじめは大学でというお話でしたが、ポストが空いていなかったので高校の英語教師になりました。その後すぐに短大の英文科に移り、ちょうどボストンキャンパスがオープンするということで立ち上げ要員としてボストンに行きました。アメリカのネットワークが強いということで抜擢されたのかもしれません。ボストンのキャンパスの工事が遅れていて、早くオープンさせろという日本側と、なかなかスケジュールどおりにはいかないアメリカ人との間に挟まって、アメリカ労働法の本まで読んでしまいました。そのボストンキャンパスも今年で21年目です。現在昭和女子大学には国際協力室があり、私はその仕事も兼ねていて未だにボストンに関わっていて、毎年1回はボストンに出張しています。それからしばらくして、これもご縁でNHKラジオ「やさしいビジネス英語」のテキストにビジネスの場での単語問題を毎月作成し、その後エッセイが加わり、昨年15年を迎えて終了しました。「継続」が苦手な私がよく続いたものです。

2.最近の大学生

英語力

編集部:
現在も主にビジネスイングリッシュを教えていらっしゃるのでしょうか。
増澤:
はい。社会言語学とビジネスコミュニケーションを中心に教えています。東京大学ではスピーチやプレゼンを10年教えています。昔に比べると、やはり全国的に英語力のレベルが落ちてきています。私たちの時代は東大の受験生のボキャブラリーが8000~10000語と言われていたそうですが、現在では6000語ぐらいとか言われているようで、そこだけでも相当の違いがありますね。昭和女子大学の学生も10年前に比べると、少子化、共学との競合、ゆとり教育、という3重苦で英語力が落ちています。ただし、東大生も含め学生は、昔より「しゃべる」ようになっていて、“コミュニケーション力?”(対人力というのでしょうか)は強くなっているようです。基礎の文法力はさすがに東大生はあります。しかし新聞を読ませるとすぐにわかりますが、全般的に語彙力が低いですね。読書量が足りないのです。今の学生は日本語の本も読まないですから。

性質

増澤:
日本人の性質が変わってきているように思います。良し悪しはともかく、コミュニケーションスタイルが変わってきています。以前は外国人がいると、あがってしまったり、避けてしまったり、構えてしまう。それが今の学生にはありません。”Hi”と言ったら”Hi”、と物怖じせずに答える。ただその後が続かない。一部の学生は懸命に勉強して英語を使える武器にしますけど、中には英語はアクセサリー感覚の学生もいます。英語という格好いいアクセサリーを持っていたい、というところがあるのです。 でも、英語の単語一つ覚えられない学生が、携帯メールを打つときなどのあのスピード。あれはどこか別の回路が発達しているのですね。だから私たちが出来たことを今の子が出来ないからといって能力が低いのではなくて、やはり違うものが備わってきているということでしょう。そこをちゃんと見てあげないとかわいそうですよね。何か回路が違っているのです。それと最近の学生は水泳の北島選手に代表されるような有言実行で、国際的に通用するタイプと受身で海外に興味がなく、便利な日本でぬくぬくしていたいタイプが二極化しています。

今、学生に必要なもの~正確さ・本を読むこと・想像力

編集部:
学生の性質に変化がある中で、どのように英語力を上げていこうと考えていらっしゃいますか。
増澤:
英語教育については、もう一度きちっと正確さ(accuracy)を重視する教育に戻した方がいいですね。そうしないと後が伸びません。でもどの学生も、英語を読むよりも書くよりも、しゃべれるようになりたいというのが一番の希望です。親もそう思っているところがあります。うちの子は文法は出来ますけど、しゃべれないと。いやいや、そういう子は実は文法も出来ません。基礎になる文法が出来なくてどうして外国語をしゃべれるようになるでしょうか。今の学生は読むという作業が出来ない。母語でも読むのが嫌いなのですから、ましてや英語なんてとても出来ない。それから、類推が苦手ですね。本の筋を追って人間関係を理解することが弱いです。小学生時代から、ストーリー性のあるものも読ませたほうがいいと思いますね。どうなっていくかと想像する力。それを養う必要があります。一般的に言えることは、出来る人は学歴に関係なく、小さいときから、本を読んでいる。それは共通項としてあるような気がします。プレゼンとかスピーチとかそういうスキルを勉強することが主流になっていますが、もう一回基礎や原点に戻ってバランスを考えたほうがいいと感じます。

3.小学校英語

増澤:
学生の学力を考えるとどうしても小学校のカリキュラムに行き着きます。それは英語だけではなく、学びの最初の場としてです。小学校英語が2011年からスタートしますが、個人的には日本語の読み、書き、そろばんをきちんとやって欲しいという気持ちがあります。問題は、現在の小学校には英語教育について経験もなく、レベルの高い教員を用意できるかということだと思います。学びの最初の入り口に一番力のある先生がいなければ、先が見えません。出口を知った人を最初の入り口におかなければいけない。だからこそ、小学校では教える英語のレベルが易しいから、別に高度な英語力は必要ないという具合にはいかないと思うのです。むしろ、トップ級の先生が行ったほうがいいと思うのですが。大学も同様で、概論や入門を教える人はその分野の権威が教えるべきだと思いますね。先を見据えて最初にこれが必要だと知っているからです。しかし、小学生って動き回るし、歳をとったベテランが行くと疲れちゃう。小学校の教員って、本当に難しいと思いますよ。尊敬してしまいます。こういう難しい局面に対応出来る先生が一体何人いるだろうかという問題になってくるのです。

4.留学の意味

増澤:
私たちが学生のころ、誰かが、「日本の若者は20年後には立派なアメリカ人になっている」と言っていましたが、なにかその通りになっている感じがします。30年前はまだ日米のライフスタイルは異なっていました。しかし、現在経済的に豊かな国々は、とくに若者のライフスタイルにそれほど差がみられません。iPodに、携帯にスタバと。ですから何のためにアメリカに留学するのかという意味を問われると、大学院のレベルは専門性ですが、学部や語学学校となると、生の英語に接することや、人種にぶつけるということですかね。日本では色々な人種に出会うことは難しいですが、アメリカでは自然ですし、様々なレベルの英語で仕事したり暮らしたりしている姿を直に見ることが、刺激になっていいでしょう。昭和女子大の学生がボストンキャンパスで得てくるものは、正直に言うと、忍耐力、コミュニケーション力、そして英語力ですね。集団生活ですから忍耐力がつく。コミュニケーション能力、ソーシャルスキルは本当に上がります。そのため、結構就職の面接は強いですね。すぐに就職できるという意味でなく、落ちてもめげずにまた這い上がってくる。人間力が付いて大人になってきます。手前みそですがこれは英語力より素晴らしいですよ。学生は当然、英語力を上げるつもりで行きますが、どうも副産物のほうが大きく出ることが多いようです。

5.英語教育での大学の役割

変化する大学の役割

編集部:
こういった状況の変化に対して、大学の果たすべき役割も変化しているのでしょうか。
増澤:
英語というのは研究と実践との両面があり、これから大学に求められているのは語学学校的なものと、研究と分かれていくと思いますね。私立の女子大の英語系は、語学学校的なものを求められる割合がますます増えてくると思います。2人に1人大学に進学する時代ですから、学部はもう高等教育機関とは言えないです。私の勤めている学科では、21年前からボストン校への1セメスター以上(5ヶ月、1年、1年半プログラムの3種類のうちのどれか)の留学を必修にしています。留学ということはもうとっくに特別なことではなくなっています。東京大学も数年前から、工学系などは特に英語教育に力を入れ始めました。英語が出来ないと国際的競争に勝てないし、国際企業に就職出来なくなってしまうからです。東大に限らず、早稲田の理工も含めて、大学は全体的に理工系の英語に非常に力を入れています。また何回か訪問したのですが、ビジネスにフォーカスした立命館アジア太平洋大学の試みも実に面白いと思っています。

新しい授業

増澤:
若い学生たちを教育していくためには、こちらも近づいていかなければいけません。私は機械に弱いのですが、iPodを駆使して授業をしています。昨年のオバマ大統領の勝利演説は、朝、YouTubeから演説映像をダウンロードして、1時間目の授業に使いました。その間たったの数時間。話題性のある授業がスピーディに出来ました。Steve Jobsのスタンフォード大学でのスピーチや、昔のMartin Luther King、John F. KennedyなどのスピーチといったものもYouTubeからiPodにダウンロードしておいて、いつでも使えるようにしています。便利になりましたね。ですから、自分の首を絞めるようですが、今英語を勉強するのにお金はかかりません。テキストもWebサイトからダウンロードできますから、教材費なしで出来ます。授業の形式も当然変わってきています。また今年度はキャリアプランニングというオムニバスのコースを作って、学生たちに「二十歳のハローワーク」のようなことをやりました。これもまた私のネットワークで、旅行会社の社長、中小企業の社長、報道記者、広告会社、ロジスティックス関係、英字新聞記者、卒業生でホテルで働いている人、NGOで活躍している人など様々な分野からの講師に薄謝でお願いしました。企業が社員に求めているものなども語ってもらい、将来のためにこういうことをやっておくといいよとか、英語を学ぶことを少し励ますようにしてもらいました。学生にも評判が良かったですが、講師側にも好評で、学生のレポートを読みたいということで送りました。

最後に

増澤:
いろいろな面から英語教育に関わってきましたが、先人たちがずっと語ってきたように、「教える」というのは本当に難しいですね。
「教えた」と思っても相手が「学習している」とは限らない。学習パターンは十人十色ですから、これが「良い」といっても合わない人もいます。
自分の方法を見つけた人はラッキーというべきでしょう。学生はどんどん変わります。こちらもそれに迎合するのではなく、変わる相手を理解する努力が必要ですね。相手を理解することを拒否するようになったら、そのときは引きどきです。このところ日本人の若者は海外に出ないといわれますが、もう少し、分析してみないと分かりません。語学留学は減っても院生は増えているとか。高等教育機関は地球規模で探す時代になりました。日本の大学は国際競争に勝てるか不安ですが、それにしても何をしても、offcial languageは「英語」ということは避けられないでしょう。

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