様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。
鈴木 佑治 先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授
TOEFLメールマガジンの読者の中にはこれから米国留学をしようと考えている人が大勢いると思います。そこで今月号では以前にも触れた私の留学体験についてもう少し詳しく話してみようと思います。私は1968年から1978年まで米国で留学生活を送りました。カリフォルニアに4年、ハワイに1年、ワシントンD.C.に5年と合計10年間の滞在でした。最初は私費留学でした。私費留学と言っても渡航費以外に所持していた資金はわずかで半年で使い果たし、皿洗いなどいわゆるオッド・ジョブをしながら生活費を稼いで急場を凌ぎました。幸いにもやがて大学で日本語を教える職を得て学費と生活費を稼ぎました。仕事と勉強を両立させることは大変でしたが、自立心を鍛錬するにはとてもよい体験でした。また、大学で教えることにより米国の大学の仕組みを学ぶ機会にもなりましたし、それ以上に多くの友達が出来たことが何よりの収穫でした。
さて、今回はワシントンD.C.で過ごした5年間について話したいと思います。ワシントンに着いたのは1973年8月末で私は29歳の時でした。同年5月にハワイ大学大学院の英語科教授法(TESL)の修士号を取り、ジョージタウン大学大学院の言語学博士課程のアドミッション・レターを手に遠路はるばるやってきました。秋学期の授業料を払うとカリフォルニアで4年間稼いで貯めた資金は尽き、またしばらくオッド・ジョブをして生活費を稼ぎました。そうこうしている内に日本語学科が助手を募集しているのを見つけて応募したところ幸いにも採用されました。カリフォルニアでの経歴が効いたのでしょう。兎に角これで一息つくことができましたが楽ではありませんでした。月曜日から金曜日まで午前中8時頃から12時頃まで初級・中級の日本語を教え、午後に授業を取り、空いた時間を勉強に当てる日々が続きました。とは言え、年間の授業料が3000ドル、生活費その他で3000ドル都合6000ドル掛かかる時に突如7000ドルの収入を得ることが出来たのですから文句は言えません。当時のスカラーシップとかフェローシップは3000ドル位でしたから本当に嬉しかったです。
ジョージタウンはワシントンD.C.の高級住宅街で、当時はキッシンジャーらの高官や政治家、有名ジャーナリスト、各国大使や外交官が住む場所でした。学生は少し離れた安いタウンハウスとかアパートを何人かで借りて部屋代を分割して住むか、ボーディング・ハウスに下宿して雨露を凌ぐ以外にほか道はありません。私もワシントンに着くやあちこち安い下宿を探し回わり、ジョージタウンの街外れにヒギンズさんという80才位のおばあさんが営むボーディング・ハウスを探し当てて下宿することになりました。ヒギンズさんはワシントンD.C.に隣接するメリーランド州生まれでこの地域を出たことが無く世間知らずというか、カリフォルニアやハワイは外国だと言い張って聞きません。毎月の部屋代をキチンと忘れずに徴収していましたから決してぼけていたわけではありません。毎晩テレビのショーを見るのが好きでテレビに向かって大声で歓声・罵声を上げていました。それがハリウッドのショウであることは分かるものの、ハリウッドがカリフォルニア州にあることは分っていないのです。当時の大統領ニクソンはカリフォルニア州の出身だと言い聞かせても介しません。1970年代には広いアメリカに住んでいながらその地域しか知らないこんなアメリカ人もいました。そういう人に会えるのも大学を離れて現地の人たちと暮らす醍醐味です。
【ジョージタウン大学の教え子と。左端が筆者】
日本語を教え始めて一定の収入が入り始めたので、ヒギンズさんのボーディング・ハウスを出てポートマック河を挟んでジョージタウンの対岸に広がるバージニア州アーリングトンにアパートを借りました。硫黄島記念碑とかケネディ大統領が眠るアーリングトン墓地がある場所です。ジョージタウン大学のキャンパスを出て映画エクソシストを収録したエクソシスト・ハウス横のレンガ造りの階段を降りてMストリートを渡り、ポートマック河にかかるキーブリッジを歩くと私のアパートに着きます。当時はニクソン大統領のウォーターゲイト事件でワシントンは大揺れで、その舞台になったウォーターゲイト・ホテルは直ぐ傍にありました。ワシントンは高層ビルが無く大きな木々が立ち並び、春は若葉の青緑、夏の深緑、秋の紅葉、そして冬枯れと季節を感じさせてくれます。特にハローウィンの頃には赤や黄色の葉がさらさらと降り注ぎそれは見事でした。
こんな環境の中で1973年9月から言語学博士課程の勉強が始まりました。博士課程といっても正式にプログラムに入れるわけではありません。言語学修士課程を取りQualifying Examinationを受け、High Pass、Pass、Non-passの3段階評価でHigh Passで合格しないと正式に博士課程に進むことができません。High Passは全受験者の2割ないし3割位であったと記憶しています。Qualifying Examinationは2回受けることができますが、High PassではなくPassだけではterminal masterと言って修士号をもらえますが、博士課程には進むことができず退学しなければなりません。また、修士課程の人たちと一緒に受けるので全ての科目でAを取る事が暗黙のうちに求められていました。Aは100~95点、B+は94~90点、Bは89~85点、Cは84~80点、Dは79~75点、Fは74点以下でした。Aは各授業でトップ2%~5%に与えられます。大学によってグレード・システムはまちまちで、A+、A、A-、B+、B、B、C、D、Fという細かいシステムを使う大学もあります。どのように表記されても一番良いグレードは100点から95点でトップ2%~5%であることには変わりありません。
私の手元にジョージタウン大学大学院時代の私の成績証明書(transcript)があります。日本の成績証明書とほぼ同じですが、履修した授業とその成績以外に以下のようなことが書かれています。
成績証明書はこの間の人生記録です。成績証明書にある一つ一つの記録の陰には大小様々な人生ドラマがあります。1970年代のどこの大学院でも、博士候補生(Ph.D. candidate)になるための試験(comprehensive examination for the Ph.D.)は大変難しい試験でした。ジョージタウンの場合1日目は主専攻の試験、2日目は第1副専攻の試験、3日目は第2副専攻試験と、1日おきに朝から晩まで3日を要しました。筆記試験だけではありません、筆記試験にパスすると数名の教授による口頭試問がありました。その前に1年ほどの準備があり、夥しい数の指定学術書と論文リストを渡され全部目を通さなければなりませんでした。ですから試験が終るとしばらくは呆然としたものです。試験後3週間ほどで結果が出ますが容赦なく落とすことで有名でした。それがとても非人間的で、ある日突然電話がかかってきて合格か不合格かを通達するのです。不合格でももう一度チャンスがありますが、二度ダメだと博士課程退学でGoodbyeです。合格すると博士候補生(Ph.D. candidate)になり博士論文を書く資格を得て論文を書くことができます。天国と地獄の分かれ道に立たされます。今でも鮮明に覚えています。1975年12月の某日自宅アパートでくつろいでいると突然電話がなりました。電話を取ると研究科委員長の秘書の女性でした。
ガチャと受話器を置く音がしました。嬉しいはずなのにしばし茫然自失でした。それにしてもとんでもない電話です。合格したから良かったものの、不合格だったらYou didn’t pass!ガチャンだそうです。あの秘書の人あんな調子で10数名の受験者に次々と電話をかけているのです。You passedを聞くや喜びのあまりハイパー・アクションに出た人も居たと聞きます。スーパーに行ってリンゴを買い込み、行き交う人にI just passed! Here you are! I’m not nuts! I passed! Have one please! 何に合格したかも告げずに訳のわからないことを口走り、ひたすらリンゴを配ったという話です。ま、そのくらい大変な試験だったということでしょう。成績証明書に記された[Comprehensive Examination for the Ph.D.: December 9, 1975]というほんの一行の件を見ながらこんなことを思い出しました。
ですから直ぐ論文に着手することなんかできません。1、2ヶ月は放心状態が続き浮遊します。私の場合は久しぶりに日本に帰り日本の正月を満喫しました。1976年の正月でした。ワシントンD.C.に帰るや現実に戻りました。The party is over! です。論文のテーマを決めて主査1名、副査2名をリストしてプロポーザルを書き、審査の結果認められ[Thesis Research]という科目に登録して、いよいよ博士論文執筆に向けて始動しました。それから2年の間午前中は日本語を教え午後は図書館に篭ってリサーチする日々が続きました。図書館に2畳くらいの個室を確保し参考文献をまるで仇にでも立ち向かうかのように読み漁りました。この段階でも色々なドラマがあります。私のことではありません。あるアメリカ人がヒンズー語について論文を書いていたのですが、事情があってインド人の奥さんに愛想をつかされて離婚する羽目になってしまいました。離婚自体大変なのに奥さんがヒンズー語のデータ提供者(informant)であったために十分なデータが取れずに博士論文を諦めざるを得なくなったという。まさに人生色々です。論文仲間がやれ別れた、よりを戻したなどの下世話な話は日常茶飯事でした。論文を書かなければならない暇は無い、さしたる仕事も無ければ、論文を書いた後の職も無い、無い無い尽しで精神的にも不安定になる時期ですからあっても不思議ではありません。そんな中でも私は比較的順調でした。恩師である故Walter Cook 教授の厳しい指導を受けること苦節2年、1978年2月に論文を仕上げ、主査と副査の論文審査を受けて口頭試問(oral defense)でも無事defenseしてPh.D.を取得しました。
あの口頭試問の日は忘れられません。由緒ある建物の一角にある会議室のラウンドテーブルには口頭試問委員である有名教授が数名座っていました。挨拶が終わると口頭試問の火ぶたが切って落とされ、容赦なく集中砲火を浴びせてきました。それに対して自分の論点をディフェンスしなければなりません。全員が鬼の形相でけしかけて来ます。中にはかなり熱く挑んでくる先生もいました。私は必死に防戦します。2時間以上経ったのでしょうか、終ると会議室の外で待たされるのです。20分経っても何やら激論をしているらしく閉まったドアから激論が漏れ聞こえてくるのです。私には20年にも思える長い時間でした。するとドアが開き審査員の1人の教授が出てきて会議室に入るように手招きしました。心臓が高鳴り歩いているのか宙を浮遊しているのか分かりません。会議室に入ると先生方は私の方を向いて立っていました。みな怖い顔をしているように見えたので一瞬「ダメか」と思った矢先に、1人の教授が私の方につかつかと寄ってきて大声で言いました。さっき熱くなっていた先生です。Well, congratulations! Dr. Suzuki! そして握手を求めてくるのです。心臓によくありません。すると全員が今までとは打って変わったように満面に笑みを浮かべて握手をしてくれるのです。そしてキャビネットを開けると、当時ジョージタウンでは有名な儀式であるシェリー酒の瓶がポンポンと開けられ、私にもグラスが渡されるや乾杯が始まりました。Here, you need it!飲まずには居られないだろうと言うのです。酒を飲めない私もこの日ばかりは一気に煽りました。[Degree Awarded: Doctor of Philosophy Major: Linguistics May 28, 1978]という短い一行にも、私にとっては人生の分岐点とも言えるドラマが隠されていました。
博士論文を仕上げるのは自分との戦いです。寝ていてもアイディが浮かぶととんでもない時間に飛び起きて書いたり、行き詰って夜中にカフェに行きコーヒーをすすりながらペーパー・ナプキンにアイディアを書き考えたりしました。その後の人生がどうなるかはまったくの白紙で不安な日々でしたが、時々妙に懐かしい思い出として蘇ってきます。ある晩、知り合いのM.K.氏が私のアパートに来て明日日本でとんでもない事件が発覚するぞと言って帰りました。翌日、日本ではその事件が明かるみに出て大変な騒ぎになったようですが、こちらはそれどころではありませんでしたからすっかり忘れていました。たまたま図書館で1ヶ月遅れの日本からの新聞を手にしてみると、あの晩の翌朝の新聞はその記事で溢れていました。ロッキード事件です。私のワシントンD.C.での5年間の最後はそんな時でした。どんな成績証明書にもその人のその部分の人生が凝縮されて隠されています。世界のあちこちでたった今同じ体験をしている人がいるかもしれません。これからそのような体験をする人もいるかもしれません。そんな人たちにエールを送ります。若い時しかできない体験です。