様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。
鈴木 佑治 先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授
2010年2月に発行されるTOEFLメールマガジン84号はジャズ・ミュージシャンの川合純一氏に登場していただきます。川合氏は現在大阪在住で、ニューオリンズ・ラスカルズ(New Orleans Rascals)のバンジョー奏者です。ニューオリンズ・ラスカルズは毎週土曜日にJR大阪駅、梅田駅にある老舗のライブハウス、ニューサントリー5でライブを行っています。『男の隠れ家・別冊・ジャズを巡る旅』(あいであらいふ2008年2月25日発行p.76~80)に掲載されている「大阪・大正末期から脈々と受け継がれたニューオリンズ・ジャズの精神がキタの街を熱くたぎらせる」と題する記事で、SF作家の堀晃氏はご自身が長年聞き続けてきたニューオリンズ・ラスカルズを紹介しています。ラスカルズは1961年に早稲田大学ジャズ研究会と関西学院大学軽音楽部の卒業生が集まり結成され、以来48年間、ピアノ奏者以外は結成時メンバーのままで、毎週土曜日にニューサントリー5で37年にわたり演奏し続けています。バンドのリーダーでクラリネットの河合良一氏、トランペットの志賀奎太郎氏、トロンボーンの福田恒民氏、ドラムの木村陽一氏、そして今回インタビューに応じてくださったバンジョーの川合純一氏が結成当初からのオリジナルメンバーです。結成以降、ピアノの尾崎喜康氏、 ベースの石田信雄氏が加わりました。
私自身、2008年4月に関西に赴任してから何度かラスカルズの演奏を聞きにニューサントリー5を訪れました。メンバーの平均年齢は60代後半ということですが、まったく年齢を感じさせず、磨き抜かれてパンチが効いた中身の濃い名演奏を聞かせてくれます。演奏を聞くうちに大阪にいることを忘れ、ニューオリンズのフレンチ・クォーターにあるニューオリンズ・ジャズの聖地プリザベーション・ホール(Preservation Hall)にいるかのような幻想を抱かせます。リクエストに気軽に応えてくれると言うので、私は後で説明するジョージ・ルイス(George Lewis)とニューオリンズ・ストンパーズ(New Orleans Stompers)の十八番”Ice Cream”をリクエストしてみました。演奏が始まるやしばらくして川合純一氏がバンジョーを奏でる手を休め、”Ice cream, you scream, everybody screams for ice cream…”とソロでボーカルを入れました。英語といい歌声といい、あたかもニューオリンズ・ストンパーズのジョー・ワトキンス(JoeWatkins)がそこにいるかのようでした。遠い昔にニューオリンズのアフリカ系アメリカ人が歌った曲が、2008年の大阪で日本人のジャズメンによって再現されるとは驚きです。ニューオリンズで途絶えたトラディショナル・ジャズの文化をここまで守り続けたラスカルズに興味を抱かざるをえません。
堀氏によると、1923年(大正12年)の関東大震災で東京のジャズメンが大挙して大阪の道頓堀周辺に移り住み、界隈のダンスホールやカフェからは毎夜ニューオリンズ・ジャズ(デキシーランド・ジャズ)が流れて、たちまち日本一のジャズの街になったとのことです。ところが、1927年(昭和2年)に大阪市がダンスホールやカフェを禁止すると、行き場を失ったジャズメンは大挙して東京に戻り、大阪からジャズの火は消えかかりました。それでもその根は生き残り、大阪を中心に関西では往時のニューオリンズ・ジャズを演奏するバンドは多く、毎年10月に行われる神戸ジャズストリートでも参加するバンドの大部分がトラディショナル・ジャズを演奏しています。ラスカルズはそういったバンドの頂点に立つ存在であり、海外でもその名は知られ、本場ニューオリンズの名誉市民の称号を受けています。そんなラスカルズを語る上でこの人無くして語れないというニューオリンズ・ジャズの歴史に輝く伝説の巨匠がいます。それがクラリネット奏者のジョージ・ルイスです。かの有名なルイ・アームストロング(Louis Armstrong 愛称:サッチモ)もニューオリンズで青年時代を過ごしましたが、もしかするとジョージ・ルイスが参加した有名なキッド・オーリー(Kid Ory)のバンドやバンク・ジョンソン(Bunk Johnson)のバンドで一緒に演奏していたかもしれません。ルイスは生涯ニューオリンズを離れることなく伝統を守りましたが、サッチモは犯罪に巻き込まれてニューオリンズを逃げるように脱出してニューヨークに流れつき、1970年に生涯を閉じるまでそこに暮らして、ジャズ史に残る輝かしい成功をおさめました。サッチモのトランペットとルイスのクラリネットがコラボレーションしたらどんな音楽が生まれたでしょうか、ファンはついそんな空想をしてしまいます。両巨匠ともこの世を去りましたが、世界中に残した彼らの遺産は着実に受け継がれてきました。
ジョージ・ルイスは1963年に来日して、東京の厚生年金ホールなどで演奏しその後大阪公演を行いましたが、結成間もないラスカルズのメンバーは、毎日のように公演に詰めかけるうちにルイスの一行と交流するようになりました。ジャズというと酒とタバコなどの退廃の臭いがしますが、それはステレオ・タイプした見方でルイスには馴染みません。ジョージ・ルイスは1900年にニューオリンズに生まれたアフリカ系アメリカ人で、敬虔なクリスチャンであり品行方正でとてもひかえめな人であったと言われています。彼の演奏する曲の中には”The Old Rugged Cross”や”Just Walk with Jesus”など賛美歌や黒人霊歌が多いのが特徴です。清貧で演奏だけでは食べていけず、昼間は港湾労働者として10時間以上の荷揚げ作業をして75セントほどの日銭を稼いで糊口をしのぎ、夜はフレンチ・クォーターのニューオリンズ市が管轄するプリザベーション・ホールで観光客を相手に演奏していたようです。体重は55キロほどしかなく痩せていておまけに喘息持ちであったために、演奏の合間に突然発作に見舞われて倒れることもあり、トロンボーン奏者のジム・ロビンソンが絶えず付き添って介抱していたとの話もあります。それでも毎夜毎夜欠かさずトラディショナル・ジャズを演奏し続けた(Keep playing)と言うことです。私は、亡父が1900年生まれでルイスとまったく同年齢であったこともあり、そんなルイスに明治生まれの父親と何か共通するものを感じました。か弱そうなこの人がアルバート式のクラリネットを口にするや、ソウルフルな音色で聴衆を魅了しその心をすっかり奪ってしまうのです。圧巻はブルースです。悲痛の叫びのように高音が響いたかと思うと突如重い鉄の鎖に繋がれて呻くような低音に変わり、まるでアフリカ系アメリカ人の苦しい奴隷時代の悲話を淡々と綴るかのようでした。いずれにせよ、戦後の閉塞感に苛まれていた当時の日本の若者の心に共鳴するものがあったのでしょう。
かく言う私も例外ではありません。1962年の秋に道玄坂のスイングというジャズ喫茶に行き、はじめて耳にしたのが上述の1958年版Blue Note 1208の”Concert: George Lewis and his New Orleans Stompers”でした。目から鱗というのはこのことです。今まで聞いた事のないこのレコードの演奏に感激しジョージ・ルイスの虜になってしまいました。前号でも述べた通り、私は1968年に渡米しました。当時、行く当てもなくニューオリンズからバスで2時間足らずのバトン・ルージェにあるルイジアナ州立大学の英語コースを選び4ヶ月ほど滞在しました。その理由は、ニューオリンズのプリザベーション・ホールでジョージ・ルイスの生演奏を聞きたかったからです。残念ながら1968年に彼は既に病床に臥し、その秋に他界しましたので聞く機会を逸してしまいました。私の失望は察していただけるかと思います。私はその年の秋にカリフォルニア州サンタバーバラにてテレビのニュースでルイスの訃報を知りました。ニューオリンズからの中継でレポーターが、「これが最後のトラディショナル・ニューオリンズ式の葬式になるでしょう」と紹介していたのを今でも鮮明に覚えています。ジャズメンらのマーチングバンドが、”Just Walk with Jesus”や”What a Friend We Have in Jesus”などの賛美歌をスローテンポでおごそかに演奏しながら葬儀の行進は墓まで続きました。ルイスの遺体を埋葬し終えた帰りの行進は雰囲気をがらりと変え”You Rascal, You!(悪党もついにくたばった!)”などのアップテンポで軽い楽曲でswingしながら行進し、「奴は天国に行ったのだからみんなで喜んで祝おう」というメッセージを天国のルイスに贈っているかのようでした。これがニューオリンズ・ジャズの原点と言えるものですが、ラスカルズ(Rascals)の名はこの曲から取ったのでしょう。
ニューオリンズ・ラスカルズは1963年以来ジョージ・ルイスと交友を持ち、彼らは何度かアメリカの各地を回り好評を博しました。生前ルイスは彼らを我が息子と呼び、特にクラリネット奏者でリーダーの河合良一氏はルイスの再来といわれるほど彼の演奏方法を極めたミュージシャンで、生前ルイスが愛用したクラリネットは遺族の意思で河合氏のもとに贈られました。上述の1954年版のBlue Noteのレコードはスタジオで録音されたものではなく、カリフォルニア州のある町のホールでのライブ演奏を、編集せずにそのまま収録したものです。アフリカ系アメリカ人への激しい差別が残っていた時代ですから、白人クラリネット奏者のベニ―・グッドマンのような素晴らしいスタジオでは収録できませんでした。それに追い討ちを掛けるかのように、トラディショナル・ジャズの時代は終焉を告げ、いわゆるモダンジャズに移っていた時期でした。ある心無い評論家は“the-nothing-to-lose school of music”「失うものは何も無い音楽ジャンル」などと見下した批評をしたようです。ルイス自身もこのコンサートの冒頭で”After a year or so, you may not hear this music any more.(これから皆さんが聞く我々の音楽は1、2年で消えるでしょう)”とサラッと述べてから演奏を始めています。ところが”Ice Cream”を皮切りに”Red Wing”と演奏が続くと白人の聴衆は熱狂して総立ちになり歓声が鳴り止みません。レコーディングの一部は歓声にもみ消されてしまい、その合間を割くようにルイスのクラリネットの高音が聞こえてきます。キリスト教でリバイバルというのがありますが、まさにそれに似た現象がそのコンサート会場に起きていました。そのリバイバルの火はたちまちイギリスに飛び、戦後の焼け野原が残るオランダやドイツに飛び火して、やがて遠い極東の日本の若者たちに燃え移りました。そんな若者たちの筆頭がラスカルズ結成メンバーであったに違いありません。
1963年にジョージ・ルイスは日本のファンに応えてやって来ました。世はビートルズ旋風が吹き始めたころですが、東京の厚生年金ホールにはジョージ・ルイスの音楽にほれ込み待ち焦がれていた人々で埋め尽くされました。NHKテレビでも放映されましたが、アメリカでは音響効果が悪い町の公会堂のような所でしか演奏できなかった一行は、赤じゅうたんが敷かれ一流のステレオ版録音装置を備えた厚生年金ホールで演奏できたことに感激したようです。ラスカルズはそうした一行が大阪で公演を開始するやほぼ毎日のように足しげく通いました。その結果ついにジョージ・ルイスを彼らの練習場に招くことになり、ルイスの前で「御前演奏」の機会が持てたのです。以来、ニューオリンズ市のプリザベーション・ホールでルイスのバンドと演奏し、全米各地を回り演奏旅行して拍手喝采を浴びてきました。こうした輝かしい歴史と実績を持つラスカルズのバンジョー奏者の川合純一氏も、ルイスのバンドに属していたバンジョー奏者ローレンス・マレロ(Lawrence Marrero)とエマニュエル・セイレス(Emanuel Sayless)らを髣髴させる名奏者です。川合氏はまた、類まれなコミュニケーション能力をもち、欧米のジャズメンと永きに亘り交流し、彼らの多くが川合氏の英語による話術の虜になってしまうそうです。次回は音楽もさることながらことばでも魂をゆする川合純一氏のお話を伺います。お楽しみに。
ジョージ・ルイスの演奏はYouTubeで触れることが出来ます。また、彼の生涯についてはDorothy Tait著”Call Him George”を読むとこの天才クラリネット奏者が世界中の多くの人に感動を与えたことが書かれています。最近、小中セツ子氏が翻訳し『伝説のクラリネット奏者、ジョージ・ルイス』(Soliton Corporation発行)も出版されました。ラスカルズについての詳細も含めて、Original Dixieland Jazz ClubのWebサイトをご覧ください。これらのミュージシャンがニューオリンズ・ジャズを通してどのように素晴らしい文化交流を続けてきたかよく分かり感動を与えてくれます。ジョージ・ルイスが生きていたら、ハリケーン・カタリーナの襲来で危機に立つ故郷ニューオリンズを憂えることでしょう。ルイスのオリジナル曲”Burgundy Street Blues”を奏でるラスカルズはその憂いを代弁するにふさわしいミュージシャン達です。元早稲田と関西学院の学生であったメンバーが立ち上げて、50年近くも続くニューオリンズ・ジャズを通しての文化交流は、教室のような狭い空間で生まれたものではありません。ラスカルズが生まれ育ちトラディショナル・ジャズを愛し続けた大阪を中心とする関西という土地柄、それが育んだ自由な創造力から生まれたものと思います。文化交流とは何かを改めて考えさせられます。Lifelongであることは疑う余地はありません。ジョージ・ルイスは”Keep playing!(演奏し続けなさい)”ということばを若かりし頃のラスカルズに残したそうですが、Lifelongと通じるものがありそうです。
次回の2月号に川合純一氏とのインタビューの詳細を掲載します。お楽しみに!