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様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。

第27回 Lifelong English – ニューオリンズ・ラスカルズのジャズメン人生 その1

鈴木 佑治(聞き手)

鈴木 佑治 先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授

川合 純一氏

川合 純一氏
ニューオリンズ・ラスカルズのバンジョー、ボーカル担当

鈴木先生のラスカルズについての寄稿 83号↓
https://www.etsjapan.jp/toefl/mailmagazine/mm83/reading-01.html

ロゴ

【ニューオリンズ・ラスカルズ近影】

河合良一さん(クラリネット、リーダー)、志賀奎太郎さん(トランペット、ボーカル)、福田恒民さん(トロンボーン)、川合純一さん(バンジョー、ボーカル)、尾崎喜康さん(ピアノ)、石田信雄さん(ベース)、木村陽一さん(ドラムス、ボーカル)

ニューオリンズ・ラスカルズのWebサイト

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・クラブ(ODJC)

鈴木:
今回は大阪在住で、ニューオリンズ・ラスカルズ(New Orleans Rascals)のバンジョー奏者をしている川合純一氏と、ジャズ愛好家のためのクラブ、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・クラブ(ODJC)の事務局長を務めていらっしゃる口羽事務局長にお話を伺います。ジャズの流れる大阪・梅田のニューサントリー5で、ライブ前の貴重な時間をいただきました。私とは同年代で、私も学生時代からジャズが大好きですから、京都に引っ越してきてから、何回もラスカルズの音楽を聴きに行っています。ラスカルズの音楽を通じた国際交流、そして生きた英語についてお話を伺っていきます。まずはODJCの事務局長をしていらっしゃる、口羽巌さんです。
口羽:
ODJCはニューオリンズの音楽を愛する方が会員になって応援するという形のクラブで、その事務局をしています。
鈴木:
もともと口羽さんはどういうご縁で事務局長をされているのですか。
口羽:
昔からジャズが好きで、それでたまたまラスカルズと出会い、音楽性もいいし、人間性もいいし、色々と可愛がってもらうようになって、それで大分前から僕と嫁でお世話させてもろうてます。
鈴木:
ラスカルズと出会って何年くらい経っているんでしょうか。
口羽:
僕がラスカルズを知ったのは20歳くらいの時ですので、40年くらいのお付き合いですね。その頃はまだ学生で、ラスカルズはまだそんなに上手くはなかったんですけれど、演奏自体にブルースが表現されているところが魅力なんですね。それが付き合いの基だと思うんです。本格的に事務局をお手伝いして15年になります。

ラスカルズの歴史

鈴木:
そしてニューオリンズ・ラスカルズの川合純一さんです。今回インタビューをさせていただくことになったわけですが、私もODJCの会員で、去年ラスカルズの川合さんと木村陽一さんの歌を聞いて、これはもうお話を聞きたいと思っていたのですよ。川合さんは関西学院大学時代からディキシーランド・ジャズバンドのバンジョープレイヤーとしてご活躍されていますが、大学の音楽クラブだったのでしょうか?
川合:
関学に軽音楽部がありまして、そこでニューオリンズジャズ・バンドをやっていました。そして大学4年の1963年に、ジョージ・ルイスが初めて来日したんです。自分がやっている音楽のホンマもんのミュージシャンがドーンと来て、大阪でまる3ヶ月間、もうなくなった新大阪ホテルっちゅうところで、毎日のようにコンサートですよ。僕たちは朝からホテルに入り浸りましてね。ジョージ・ルイスが当時63歳。たいてい朝からロビーでじっとしているんですよ。だから、なんていうかな、少しでもそばにいたいって毎日通ってね。普通はステージでしか見られないのに、ホンマもんが来てね、直に話す。普通のおじいさんですよ。

川合 純一氏

鈴木:
ジョージ・ルイスは、ジャズマンにとっては神様みたいな存在ですよね。
川合:
ええ、僕たちがやってる音楽の師匠とも言える人です。
鈴木:
そのジョージ・ルイスが1963年に来て、厚生年金ホールでコンサートをして、当時彼は多分、アメリカではあんなすごいホールで演奏したことはなかったんじゃないでしょうか。同時に川合さんたちのように、もう彼を神様のように崇めている学生さんに会い、彼も感激されたんじゃないんでしょうか。
川合:
私たちのコンサートにも来てもらってね。そのとき、僕はやっと22歳ですよ。河合良一さんは25とか26歳で、63歳のジョージ・ルイスにとっては子供みたいなもんだから、そりゃあもう嬉しかったでしょうね。その音楽を彼の年齢まで、いや越えるまでやってるわけですから(笑)。
鈴木:
たしかジョージ・ルイスは68歳で亡くなっていますよね。
川合:
そう68歳で亡くなりました。でもジョージ・ルイスが日本に来たから、初めてニューオリンズには僕らも行けるもんだと気付いたんですよ。僕らはニューオリンズはそんなに近いと思ってないし、聖地だと思っていましたから。ジョージ・ルイスも誰かに日本においでと言われたから日本に来た。そこで僕は河合良一さんと、最初は二人だけでニューオリンズに行こうとしてたの。そうしたらだんだん増えてきて、バンドで行くなら色々なところへ行こうということになって、ハワイ経由でサンフランシスコ、ロスアンジェルス、それからニューヨーク、ワシントン、トロント、シカゴなどをぐるっとひと月で回ったんですよ。するとそれぞれの場所にバンドがいますから、ジョージ・ルイスが色々紹介してくれて、そこに着くと僕たちの知らないジャズクラブの人がみんな家に呼んでくれる。その時に100人くらい友達が増えました。だんだん亡くなっている方もいますが、まだ生きておられる人もいます。だから1963年にジョージ・ルイスが日本に来なかったら、こういう人生はないんですね。こんな友達もいないし、僕たちもニューオリンズ・ジャズやってないし。
鈴木:
ジョージ・ルイスが来て人生の流れが変わったんですね。
川合:
そうそうそう。行ったらそこで色んな人に出会って、これが膨らんで、今ジャズを楽しんでいるということです。

ニューオリンズの思い出

鈴木:
私は1968年から78年までアメリカにいたんですけれど、一度どこかのニュースで見たことがあるんです。アメリカでも既に消えかかった音楽を、若い日本人のビジネスマンがやっていると。
川合:
どこにおられたんですか。
鈴木:
68年はニューオリンズのあるルイジアナ州バトン・ルージェに少々、それからカリフォルニアのサンタバーバラに少々、そしてサンフランシスコで1972年まで、その後は1年ハワイに、そして最後は首都ワシントンに5年いました。サンタバーバラで全国版のニュースを見ていました。ジョージ・ルイスが68年に亡くなった時、これが最後のニューオリンズ式のお葬式になるだろう、というニュースが流れました。その直後あたりのことですね日本人の一団のジャズメンのニュースに接したのは。多分ラスカルズだと思うんですが。
川合:
ああ、僕たちはテレビにも出てたから。
口羽:
1回目に行ったときはすごいニュースだったよね。その頃は木村陽一さんがアメリカに留学してて。
鈴木:
木村さんはどちらに留学されていたのですか。
川合:
松下電器で音響の仕事をしていて、パデュー大学に留学したんですよ。就職して、パデューで猛勉強して、パデューでバンドに入って(笑)。そしてニューオリンズ・ジャズを聴いてね。
鈴木:
ああ、そうでしたか。みなさんはそれぞれお仕事を持っていらっしゃって、それでいて土曜日はニューサントリー5で演奏を続けていらっしゃるんですね。40年間欠かさずにずっと。
川合:
ラスカルズ自体は48年ですね。店での演奏は40年。みんな自分の仕事をもっていて、いわゆる両立をしています。ラッキーなことは転勤がなかったこと。木村さんは2年間留学に行きましたから、その間はラスカルズに若い子を入れていましたけど。
鈴木:
この近辺でそれぞれに仕事をされていたので、バラバラになることがなかったんですね。お一人をのぞいて、全員オリジナルメンバーだと聞いています。
川合:
ええ、ピアノの方が亡くなりました。あとのメンバーは結婚する前から音楽をやっていますから、女房もブーブー言いません。結婚してからだったらブーブー言うでしょうね。そうなったらまずは家族にならないじゃないですか。だから“ジャズ Widow(ジャズ未亡人)”って言ってるの。お父さんはジャズに行ってもうて、家にはいないと(笑)。結局このバンドでは7回くらいアメリカに行きましてね。何回目かは、チャールストンでジャパン・ウィークっていうイベントがあるということで、国だか政府からの招待でした。日本の文化、茶道、空手、日本舞踊なんかを紹介するんですね。その中になぜかジャズ。それで僕ら行ったんですよ。日米知事会だったかな。日本の知事とアメリカの知事が3年に1回くらい集まるんです。まぁ懇親会ですよね。その時はジミー・カーターが知事でした。
鈴木:
ああ、ジョージア州の知事だった時ですね。
川合:
そのときは将来大統領になるなんて全然思わなかったけれども。ま、そういうことで僕たちはニューオリンズに行ったりしました。その時の日本のキャッチフレーズが、「石炭で有名なイギリスのニューキャッスルに石炭を持ち込んだ日本が、ニューオリンズにニューオリンズ・ジャズを持ち込んだ」というものでした。それが快挙だということで毎日のように新聞に出て。飛行場までチャーターで。ニューオリンズみたいな不安なところに、なんで行かなあかんのかなと思いましたけど、ちゃんと背広を着てね。当時はセンセーションだったでしょうね。
鈴木:
プリザベーション・ホールでも演奏されたんですか。
川合:
ええ、毎日していました。
鈴木:
そうですか。あそこでやるのは相当の名誉ですね。プリザベーション・ホールと言うのは、ニューオリンズ市が、トラディショナル・ニューオリンズ・ジャズ、言ってみればディキシーランド・ジャズなんだけれども、それを保護するために、ジョージ・ルイスなどのミュージシャンたちを集めて演奏させた所で、そういう文化を受け継ぐ場所なんですよね。ですから、そこに行くと、今でも聞けますよね。日本人はね、ディズニーランドに行くのもいいけれども、ニューオリンズに行ってプリザベーション・ホールに行かないと。私はアメリカに10年いたけれども、アフリカ系アメリカ人の人たちにニューオリンズ・ジャズとかジョージ・ルイスを聞いたことがあるかと言っても、殆どの人が知らないと言う。ルイ・アームストロングあたりは知っているんですけど、アームストロングの原点もここにあることを知らない。私らの方が良く知っているくらいですね、プリザベーション・ホールは昔のままで、ものすごく古いし、一見みすぼらしい。でも生きています。歴代のジャズメンの息吹を感じます。
川合:
そうそう。だからニューオーリンズ・ミュージックは全部がニューオリンズにあるわけではなくて、ドイツとか、オーストラリアとか、こういう僕たちと同じような時代に育った人たちが継承しているんです。でもその人たちが亡くなったら終わりですね。
鈴木:
次の若い世代はいないんですか。
川合:
次の世代は非常に難しいですね。
鈴木:
去年の神戸ジャズ・ストリートに行きましたけど、若い人たちも来ていますよね。
川合:
ま、我々より10歳くらい若いだけですけどね(笑)。
口羽:
でもやっぱり、スピリットっていうんですかね、今はそれが薄くなっている。手ごたえが薄くなっていて、日本もそうですね。グループによってわからないけれども。ラスカルズは黒人のホントの姿を見たからいいんでしょうね。それと謙虚さ。僕たちはまだまだって言う感じです。
川合:
やっぱり、まずは僕たちがどんなことができるか、次の世代にどんな風に伝えていくか、精一杯するしかないんですよ。幸い10歳年下の連中がいますから。その次の10歳下がガンバらにゃいかんのです。

インタビュー後に演奏を楽しむ

【インタビュー後に演奏を楽しむ】

演奏以外の活動も

鈴木:
私は1968年にアメリカに行ったときに、ジョージ・ルイスを聞きにニューオリンズに行きました。24歳のときです。ジョージ・ルイスを聞きたいと思って、まずニューオリンズに観光ビザで行きました。それまでルイジアナ州立大学で英語を勉強していたのですが、もう留学しちゃおうと思いまして。だけど68年だとジョージ・ルイスはほとんどもう演奏していなかったですね。でもプリザベーション・ホールに日本人が一人いて、それはもしかすると木村さんかなと思っているんですよ。
口羽:
木村さんは学生のときに向こうで録音していますからね。もしかすると。
鈴木:
それと、実は私のすぐ上の兄がこの音楽が好きで。静岡にいたんですけど、ずっと川合さんたちのグループを聞きたいと言っていましたが、聞かないまま亡くなりました。大阪に行こうって言ってたんですけれどね。
口羽:
東京に行くとなんていうかな、やっぱり関西人と東京人とで差がありましてね。東京の方はみんな楽器上手いんですよ。だけどここまでブルースはできない。それがやっぱり、東京人と大阪人の違いというのがあるんですよね。
鈴木:
東京はすぐとっかえひっかえになっちゃうんです。でも大阪は建物でも古いものを大切にしますよね。そういう文化があって、1回自分のものにするとずっと大事にし続けるんですね。そういうのを感じます。
口羽:
心斎橋に河合良一さんのお店があるんですよ。マホガニーホールと言って、レンガ張りで、ニューオリンズの昔ながらの建物のような。今度ぜひいらしてください。
鈴木:
そうですか、是非一度。マホガニーホールと言うのは、何ですか。
口羽:
河合さんが経営している会社のホールセクションです。貴金属の卸売りなんですけど、外国人ミュージシャンが来たりすると、そこでパーティをするんです。若い子が楽器を持って行ったりすると教えたり。こういう音楽の出演料って、どうしてもギャラが少ないんですよね。だからそれへの補助と言う意味合いもあって、そこで食事などをしながらパーティをして、寄付を募るということをやっているんです。あとはハンク・ジョーンズってご存知かな、ピアニストの。あの人がこの前来たんですけど、ハンク・ジョーンズはニューオリンズ・ジャズ知らないんですよ。それで川合純一さんが一緒に演奏しながら全部キーを教えてね。そういうこともあります。
鈴木:
そうですか。そういう人を呼ぶときは、口羽さんが色々とお世話をされるんですか。
口羽:
いや、そういうのはミュージシャンサイドがやって、僕はお客さんの方に向いてるんです。それでルイスさんも言うように、ミュージシャンばかりでなく、聞くほうも、みんながファミリーなんですね。一度会ったら全部ファミリー。
鈴木:
ああ、私が感じたのはその精神だ。ここの人はみんなファミリーだ、みんな仲がいいよと言っているんですね。これはラスカルズならではの独特の雰囲気ですね。

鈴木の感想

昨年の晩秋の土曜日の夕方、演奏を控えていた川合さんに、梅田駅近くのお初天神通りのレストランで会いました。ラスカルズがライブを行うニューサントリー5は目と鼻の先で、川合さんは演奏前にはここに立ち寄り食事をするとのことでした。まるで、ニューオリンズのジャズマンが、プリザベーション・ホールで演奏する前に、フレンチ・クオーターのレストランで食事してからという雰囲気でした。バンジョーを演奏する川合さんには何度も会いましたが、直接話をするのは今回が初めてです。口羽さんに紹介していただくや、あたかも何年も前に知り合ったような気軽さで話しをしてくださいました。私も川合マジックにはまったようです。次から次に出てくるニューオリンズ・ジャズ、ジョージ・ルイス、ラスカルズの話の世界に引き込まれました。外国人のジャズメンも川合さんの心地よい英語の話に引き込まれ彼の周りにはたちまち笑いの輪ができるという口羽さんのコメントも頷けます。ジャズに賭けた青春の情熱が人々を魅了し、バンジョーを奏でるかのように自在に英語が出てくるのでしょうか。ジャズがあり、そこから英語が湧き出てくるのでしょう。ジャズを奏で日英両語でジャズを語るバイリンガル・コミュニケーター川合さんによる、ニューオリンズ・ジャズ、ジョージ・ルイス、ラスカルズ、大阪ジャズ文化についてのドキュメンタリーは次号にも続きます。

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