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For Lifelong English

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様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。

第36回 For Lifelong English
– ホリスティック医学研究所所長・大塚晃志郎先生に聞く その1

堀田 秀吾先生

大塚 晃志郎先生 プロフィール
ホリスティック医学研究所所長
日本ホリスティック医学協会運営委員 日本統合医療学会代議員
慶應義塾大学卒業 東京医科大学公衆衛生学講座所属
第1回国際医学オリンピックにて「ヒポクラテス医学大賞」受賞(1996年 ギリシャ・コス島)
著書:「『治る力』の再発見」(日本教文社)、「人のからだは、なぜ治る?」(ダイヤモンド社)、「きっと、治る」(PHP研究所)、「体はこうして癒される」(サンマーク出版)他
訳書:「ディベート討論/代替医療は有効か?」(討論者/アーノルド・レルマン、MD vs アンドルー・ワイル、MD、(株)エンタープライズ)、「祈る心は、治る力」(ラリー・ドッシー著、日本教文社) 他

鈴木 佑治(聞き手)

聞き手:鈴木 佑治先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授

社会や教育の矛盾に悩んだ少年時代

鈴木佑治先生:
今回は大塚晃志郎先生にインタビューしたいと思います。現在ホリスティック医学研究所の所長をやっていらっしゃいます。その他いろいろなことをや っていますね。
大塚晃志郎先生:
はい。日本という国の影響力もあり、いろいろな海外のネットワークによって、海外の団体の名誉職を引き受けたり、12年前の1998年からアメリカの補完・代替医療の分野の学術的ジャーナルの編集委員を務めたりしています。日本国内では、1987年にホリスティック医学協会を創立した当初からずっと関わっています。また 、著作活動や講演活動、個人や企業、法人団体に対して、ホリスティックな統合医療をどのような方向でやるか具体化していくことなどについてコンサルティングや指導もし ます。ですから、啓蒙、教育的な部分と実践的な部分、という両面をカバーするような役割をしています。さらに、薬を使わない内外の実践的な自然医療のノウハウについては詳しいです。また、私の強みの1つは、海外とのコネクションがかなり強いということだと思います。
鈴木佑治先生:
大塚先生と出会ったのは、私が1978年にアメリカから帰国して、慶應義塾大学経済学部に英語担当の助教授として赴任したときにさかのぼります。 日吉キャンパスの英語の授業でした。大塚君とあえて言わせてもらいますけれども、若かりし19歳の大塚君と、まだ34歳の私が出会ったわけです。英語がすごくできたのに、 1年留年していなかったかな?
大塚晃志郎先生:
ええ、最初の頃はいろいろあって、またどこか他の大学へ行こうかと考えていたので、最少限の単位しか取らず、一単位だけ必修科目だった経済原論を落としてしまったんですね。
鈴木佑治先生:
必修科目は落としたら進級できないからね。英語を落としたわけでない?
大塚晃志郎先生:
いや、英語は良くて、AかBは取っていました。
鈴木佑治先生:
英語はもともとできていたの?
大塚晃志郎先生:
そうですね。でも英語を学ぶのにとくに恵まれた環境で育ったわけではありません。中学から、とある進学校に入りまして、1年の担任の先生が、高校時代、米国留学をしたことのある、大学を卒業したてのまだ22歳の若い女性の先生だったんです。この先生の発音がいいし、格好いいし、美人だし、みんなあこがれてしまったわけです(笑)。なんとかその先生に気に入られようと必死で、それが強くやる気を刺激しました。隣の組は、発音のめちゃめちゃ悪い高齢の先生が「トゥデー イズ マンダイ(Today is Monday)」なんてやっているから、余計に。
鈴木佑治先生:
「東大 イズ 駿台(Today is Sunday.)」というわけね(笑)。
大塚晃志郎先生:
それではみんな英語嫌いになるわけです。でもこちらのクラスの先生は美人だし、発音もきれいでしょ。何かこう頑張ろうという気になるじゃないです か。これが英語への最初のモチベーションです。その先生は、教科書のJack & Bettyを使って会話とか口語劇とかをやってくれていたのですが、受験校だった学校側の方針でいろいろと上からの圧力はあったみたいです。ただ、これがきっかけで英語にあこがれ、それから英語を好きになって、自分で一所懸命勉強するようになりました。

中高一貫校を飛び出し慶應義塾高等学校へ

鈴木佑治先生:
どのように学んだのですか。
大塚晃志郎先生:
当時1972年ごろは学生運動の時代からの反動でスパルタ教育が盛んで、その学校も徹底した能力別クラス編成でした。英語数学の成績の上位からクラス分けされるのですが、最初私は下の方だったんです。するとクソ真面目でしたから奮起しましてね。それまでの記録を塗り替えて2段跳びで上がりました。1年生のときの試験の平均点が90点を超えていたくらいです。そうすると先生方に、進学の有望組みたいに見られるようになりました。ところが、一番下のクラスと上のクラスとは教科書1冊分くらいの大きな差があるんですね。どんなに上に上がろうとして鼻血がでるくらい頑張っても、このギャップが埋められず成績も上がらない生徒は悩み苦しむわけです。反対に上のクラスの人は何か慢心するわけですね、俺達エリートで偉いんだ、というような。そして教師もそういう一所懸命勉強しても成績の上がらない生徒には、こんなことだと高校推薦できないぞと脅かすわけです。高校までつながっているはずなのに。校長もわが校の方針に不満のある者はここを出て別の高校に行けと強気でした。そこで私は遠慮せず、それでは、と他校を受験する準備をし始めたら、クラスの1割ぐらいの生徒が他校を受験することになってしまったようです。すると成績のいい生徒だけ呼び出されて、他校への進学を考え直さないかとの裏取引があり、大人の世界にいる教師の矛盾に気がつくわけです。純粋で一本気だったので、そういう筋の通らないことは嫌いで、ますますその学校を出る決意をかためました。
鈴木佑治先生:
それで高校から慶應に入ったのですね。
大塚晃志郎先生:
はい。いろいろと受験して、慶應義塾高校に入学しました。すると面白いことに、今まではスパルタ教育できびしかったけれど、その代わり全てレールが用意されていたような環境だったのですが、慶應は全くの放任だったんですね。いきなりホームルームもなく授業が始まる、大学のような学校で、あまりに放任で事務的で 、戸惑いました。教育や社会の矛盾に悶々と悩んでいた時期です。そういうときに、米国高校留学にあこがれて、留学の試験を受けたのですが、神奈川県は激戦区で、2回受けて2回とも撃沈しました。
鈴木佑治先生:
では留学はしなかったんだ。
大塚晃志郎先生:
ええ、だからあの頃は高校留学した人が何かえらく格好良く見えて、やたらあこがれていましたよ。でもその頃は留学以外にどうやって英語を伸ばせば いいのか勉強法など分からない。しかも学校の成績にプライドがあればあるほど、逆に失敗やまちがいを恐れてコミュニケーションすることに構えてしまって壁ができてしまうんですよね。そういう伸び悩んでいるときに影響を受けたのが、高校3年で読んだ「GiveとGet」(松本道弘著、朝日出版社)という本で、英語というのはもともと日本語とは発想が違い、“Why - Because”のロジックがあり、はっきり分かれた「ギブ アンド テイク」の「自と他」の関係があると知りました。これは僕にとってものすごいインスピレーションになって、「このロジックを鍛えれば留学した奴にだって負けやしないぞ」と思って、伸び悩み悶々としていた英語に関してはやっと吹っ切れました。

大学時代、苦悩はさらに深まる

鈴木佑治先生:
でも大学で留年したわけでしょ(笑)。
大塚晃志郎先生:
ええ。大学に入ると、周りはみんないかに楽勝な科目を要領よくとってAを獲得して、卒業したら大手企業に入るんだ、どこの省庁は楽勝だぞ、退職してからの年金はどうだ、とかそんな話ばかりで、お前ら20歳にして、もうじいさんじゃないか!と非常に憤慨したんですね。そこで私はあるシンクタンクに出入りして、いろいろな企業の部長さんや課長さんに出会いました。そういう人たちは要領だけの学生より、はるかに生きることに真面目であり、とても刺激がありましたね。だから、大学がだんだんつまらなくなってきてしまったんです。さらに決定的だったのが、経済学に対していろんな根本的な疑問が湧いてきたんです。経済活動とは人間の行動なのに、経済学ではお金や財ばかり分析している。経済現象だって人間の心理や行動を考えなければならないのではないか、おかしいと。それで経済原論の先生に質問しますと、「それは、少なくとも大学の中では研究できない」と言われました。
鈴木佑治先生:
経済の授業でやることではないと言われたんですね。
大塚晃志郎先生:
そうなんです。また、これからMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学されるという先生で、人柄は決して悪くないのですが、あるとき1978年ごろでしょうか、「今マスコミで不況と言われていますが、経済理論を研究されている先生の目から見て、日本の現状は不況でしょうか」と質問したら、「僕は理論が専門で現実のことは分からない」と答えられたんですね。こりゃもうダメだと思ってしまいました。それでは勉強しても意味がないではないかと思った。まるで王様は裸だと思いました。
鈴木佑治先生:
僕は逆の立場で同じようなことがありました。当時、今やっているような発信型授業をやりたくてもできなかったんだけど、制度の中で最大限、表現型の授業をするために、英作文の授業で、経済学部の学生に、ちょうどバブルが始まったとき、このバブルのお金は一体どこへ行っているのか、それを作文で書いてみようと言ったんです。すると何人かの学生が来て、「先生、答えを持っているんですか」と言う。「ないよ。ないから聞いているんじゃないか。僕も考えたいし、経済学部はそういうことを考えるところじゃないの?」と言ったら、「答えを持っていないのに作文に書けと言うのは卑怯だ」とこう言うわけ。そういう学生が確かにいました。面白いことに、大塚君や僕がした質問も、後になってやはり考えなければならなかったことだと分かってくる。
大塚晃志郎先生:
本当にそうですね。その後1984年にハワイに1ヶ月ぐらい滞在したときに、ハワイ大学の図書館に行くと、“Psychological Economics”という人間心理と経済の関連性を考える本がありました。何だ、以前私が探していた学問分野がちゃんとあるじゃないかと思ったものです。でもあの頃は日本でそれを考えている人はいなかったんですね。
鈴木佑治先生:
ミクロとかマクロとか言って、ただの知的な理屈だけの遊びのように見えたでしょうか。
大塚晃志郎先生:
そうですね、現実の現象をちゃんと説明できないというか、限定された条件の元での理論ばかりで、では現実世界でその前提条件が変わったらどうなるんだ、という不満でした。
鈴木佑治先生:
そういう時期に僕は大塚君と出会ったんだね。
大塚晃志郎先生:
ええ。1年を2回やったのですが、大学に絶望していて、辞めようかなと思っていた時期でした。
鈴木佑治先生:
実はある先生に、ものすごく頭がいい学生がいるんだが、何とか相談にのってあげてくれと言われたのが大塚君だった。作文を書かせたらすごいのを書いてくる。何で留年しているのか聞いてみたら、今言われたようなことだと。それで、僕が言ったのは、大塚君が考えているようなことは、どこへ行ったとしても大学に答えは落ちていない。だからとにかく今はあれこれ考えず学位を取って、そのあとで、もっと自由な世界に飛び込んだ方がいいじゃないだろうかと、そう言ったんだよね。
大塚晃志郎先生:
エサをまかれたわけですね(笑)、一応大学を出ろと。米国留学にあこがれていたので、行くにしても、また大学を4年やるよりも、大学院から行った方がいい、とにかく早く終えてしまって、あとから自由にいろんなことをやったほうがいいという風に。たしかにそうだなと思いました。
鈴木佑治先生:
大塚君は基本的にhow to、いかに現実世界が理論的に動くかとかいうのをきちっとやりたかったわけ。だから僕は、反面のhow NOT to、いかに現実が理論どおりにいかないか、ということを学ぶのも若いうちだぞとアドバイスしました。
大塚晃志郎先生:
たしかにいい意味で反面教師となり、自分の頭で考えるようになりました。それで英語の話に戻りますと、やはり留学したかったので大学を卒業する前にもう一度挑戦したんです。慶應の自治会がやっている留学制度があって、1人だけカナダのビクトリア大学に1年無償で行けるんです。試験とインタビューがあったのですが、面接の試験官が外国人だったので今までいろいろやってきたことがうまくアピールでき、相手がとても感心してくれて、これは行けるかなと思ったら、僕は留年していたことが減点になったのか、2位の次点でした。実に残念。でもね、ふり返るとそれもまた良かったです。あのときに行っていたら、あちらの洋風のカルチャーにどっぷりつかって日本の足元にある知恵に気がつかなかったかも知れない。それが、その後にいろんな出会いがあって、日本にある大切な知恵に気がついていく。あのとき行っていたら、そのまま鉄砲玉になって日本に戻って来なかったかも知れない。
鈴木佑治先生:
そしてあちらでまた同じ苦悩をくり返すことになったかも知れないね。
大塚晃志郎先生:
そのときは挫折に思いましたけど、今思えばかえって全部良かった。
鈴木佑治先生:
いい経験だね。
大塚晃志郎先生:
その後ある時期を超えると、不思議なことに国際会議などに出る機会が急に開けてきました。そこで、いきなり発表の舞台に立たされたりするのは何かすごく恥ずかしくて緊張しますけれど、やらなきゃならないので必死になって死に物狂で対処したことで、英語に関して今まで意識下にコツコツとインプットしてきたものが、いっきょに花ひらき、伸び悩みへのこだわりをやっと突破できたように思います。

「人間とは何か」その問いがホリスティック医学につながる

鈴木佑治先生:
ホリスティック医学の話に行く前に、大塚君は確か少林寺拳法をやっているよね。あれはどうして?
大塚晃志郎先生:
大学生のときに、普通の社会人や中学生などが入るような巷の道院(*道場のこと)に入りました。少林寺拳法は仏教観が背後にあるので、その本質的なところに非常に興味を持ったのです。少林寺拳法は、戦後荒廃して自分のことだけ考えるようになってしまったのを、もう1度人間を教育しなくちゃならないということで、中国の各地を回ってさまざまな武術の技を習得した宗道臣という先生が、自分なりに再構築して体系化したものなんです。
鈴木佑治先生:
なるほど。
大塚晃志郎先生:
「武道」というのは2つの「戈(*ほこ:戦闘のときの楯のこと)」を止めると書く、つまり争い事を止める、それが武道の本義だといっています。勝ち負けよりもお互いを生かしあい高めるような。そして、仏教観がまた何かピンときたのは、例えば、私は高校時代に矛盾の問題に非常に悩んでいた。自分の中の矛盾、社会の矛盾。これらはどう乗り越えたらいいかという問題が常にありました。仏教というのは面白くて、仏教のシンボルのひとつである卍(まんじ)というのも、卍の縦の棒は天と地で、横は陰と陽なんですね。プラスとマイナス。自然界というのは常にそういうものが相対しつつ、不思議に調和し、循環して変化してやまないものだと。諸行無常ですね。これは自分が長く苦しんでいた問題が、矛盾を乗り越えるのではなく、ありのままに包み込んでしまうような洞察によって、やっとふっきれた思いでした。
鈴木佑治先生:
武道というより、精神的な面が大きいわけですね。
大塚晃志郎先生:
ええ。私はちょっとませていましたから、高校2年のときからサルトルを読んだり、実存主義とかで背伸びするわけです。やたら活字が難しいと格好よく思えて、大江健三郎なんか読んだりして、今思えば背伸びの頭でっかちです。いろいろなことの矛盾が矛盾を呼んで、矛盾がずっと続くわけですね。教育に離反したり社会に離反したりしながら、自分の中にも矛盾があるんです。これは一体どうしたらいいんだと思っていたところに、自然界は矛盾だらけな対立・相反する要素ばかりだけれど、なぜかダイナミックに調和しながら変化している、という東洋的な世界観を知った。これだ!と、しっくりきたんです。
鈴木佑治先生:
矛盾と混とんの中に秩序があるということだ。シンクタンクに出入りするようになったのも大学在学中ですね。そのきっかけというのは。
大塚晃志郎先生:
大学に失望していたときに本を読んで、本の著者のビジネスマン向けセミナーといったものに参加するようになりました。でもそのときは学生ですからお金がなくて、受付を手伝ってくれたら参加してもいいよ、ということで入っていきました。その時点ではまだ「ホリスティック」という言葉も知らず、その前段階というか、発想法や創造工学とかいろいろなものに出会った時代です。
鈴木佑治先生:
初めは「ホリスティック」ではなく、真理というか本質に興味の中心があったんだね。
大塚晃志郎先生:
そうなんです。これももともとは中学時代からの話に絡むのですが、学校の先生や教育、そして社会に矛盾がたくさん見えて批判していたときに、最終的に自分の中にもたくさん矛盾があったんですね。きれいな部分や真面目な部分だけではない。そう悩んだときに、心の中にあらわれた自分の一番大きなテーマは「人間とは何か」だったんです。高校2年生の頃からです。だから何をやっていようと、自分のこのテーマを温めてやっていこうと思っていました。その問いが深まっていくと、当然「生命とは何か」、「自然とは何か」、「宇宙とは何か」ということにもつながるので、現在私がやっていることに全く矛盾はないんです。
鈴木佑治先生:
その延長線だな。
大塚晃志郎先生:
そうなんです。そもそも「ホリスティック」という言葉も、当時日本では何も言われていませんでした。これは不思議なエピソードですが、英語で大きな影響を受けた先ほどの本の著者である、松本道弘先生が主催する勉強会のお世話役をしていたのですが、あるとき松本先生の鼻の具合が悪かったんですね。それなら自然療法でよくなるんじゃないかと言ったら、大塚クリニックだとか言って、健康合宿みたいなことになりました。そこで松本先生が、1970年代後半の米国の本を取り出して、「大塚君がやっているのはこれに似ているなぁ、そうそうホリスティックや」とおっしゃったんです。それが1983年くらいでしょうか。それからしだいにその「ホリスティック」という言葉が日本でもときどき出てくるようになりました。

鈴木佑治先生の感想

本文中にも述べましたが、大塚晃志郎氏は、私が米国から帰ってきて、最初に受け持った英語の授業の受講者の一人でした。授業が終わるや、講壇までやってきて色々な質問をしてきたのを覚えています。英語に関する質問というよりは、人生、哲学、文学、言語、文化、社会、経済、政治などおびただしいジャンルに関わる難問が多かったような気がします。すさまじい創造力と発想力があり、教室とか教科書などにはとても閉じ込めておけない自由人という印象を持ちました。ある必修授業の試験で教科書には書かれていないことを書き過ぎて留年したと聞き、たった一言のアドバイスをしました。「早く卒業して世界に飛び出して好きなことをやったら?」と言ったことを鮮明に覚えています。その後、彼は難なく卒業し、さっそく世界を飛び回ることになります。次回をお楽しみに。

– ホリスティック医学研究所所長・大塚晃志郎先生に聞く–全3回
94号– ホリスティック医学研究所所長・大塚晃志郎先生に聞く その2
95号– ホリスティック医学研究所所長・大塚晃志郎先生に聞く その3

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